遠山氏説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 00:58 UTC 版)
明治期に阿部直輔によって謄写校正された『恵那叢書』によると、明智光春(秀満)の父・光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物とされており、それを参考にして遠山景行の子である遠山景玄が明智光春と同一人物、そして明智光春が秀満ではないかとの説が出されている。遠山景玄は元亀3年(1572年)上村合戦で戦死しているが、この説によると史料の不整合もあり誤伝であるという。 また遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだという補説もある。
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