近衛基輔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/22 01:16 UTC 版)
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時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 建久9年(1198年)[1] |
死没 | 寛元3年(1245年) |
官位 | 従二位・左近衛中将 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇 |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛道経 母:武蔵守藤原以頼女 |
兄弟 | 基輔、小河経村 |
妻 | 不詳 |
子 | 道俊 |
近衛 基輔(このえ もとすけ)は、鎌倉時代の公卿。右大臣・近衛道経の子。官位は従二位・左近衛中将。
経歴
基輔は右大臣・近衛道経の長男として誕生し、侍従・中将などの官職を経て従二位まで昇進しましたが、その後は長期にわたり官位が停滞しました。嘉禎元年(1235年)以降、基輔は非参議の公卿の中では筆頭(従二位・左近衛中将)の立場となり、この時同格だったのは鷹司兼忠[2](従二位・右近衛中将・越前権守)でした。基輔は寛元3年(1245年)に48歳で逝去するまで二位中将の地位に留まり、生涯を通じて参議や納言に任命されることはありませんでした。
『尊卑分脈』によれば、その子・道俊は父・道経の養子となり、延慶2年に81歳で入滅したと記録されています。
官歴
※日付=旧暦
- 承元4年
- 建暦2年
- 3月22日:叙正五位下
- 建保1年
- 3月18日:聴禁色
建保3年4月7日:叙従四位下[3]- 建保2年
- 1月13日:兼土佐権介
- 建保3年
- 建保4年
- 1月28日:叙正四位下臨時
- 建保6年[4]
- 1月5日:叙従三位
- 1月16日:左中将如元
- 承久3年[5]
- 11月16日:叙正三位
- 承久4年
- 1月24日:兼肥後権守
- 安貞2年
- 2月7日:叙従二位
- 暦仁1年
- 7月29日:服解父道経公薨
-
- 9月24日:復任
- 寛元3年
- 某月某日:薨年四十八
系譜
脚注
- ^ 基輔の生年は、寛元3年(1245年)の『公卿補任』「基輔」条に記載された没年と享年48歳という記述から逆算して算出されたものです。
(※寛元3年時点での48歳没の場合、生年は建久9年(1198年)と推定) - ^ この兼忠は鷹司兼基の子・基輔の従兄弟。
- ^ 基輔が従四位下に叙されたとされる年月日には誤りがある可能性がございます。
一般的な慣例では官職と位階の記録は時系列順に配列されるべきですが、建保3年(1215年)の官歴が建保2年(1214年)の官歴本編に挿入されている事象は極めて異例です。特に本例では注記(細字)や追記形式でもなく本文扱いとなっています。ただし、建保3年に基輔が従四位上に叙された事実を勘案すると、従四位下への叙位時期は建保元年(1213年)以降~建保3年(1215年)前までの期間と推定されます。 - ^ この年、基輔の父・道経は前右大臣であり、伯父・近衛家実は関白を務め、従兄弟・家通は同年12月2日に権大納言から内大臣へ昇進いたしました。
- ^ この年の4月20日、順徳天皇は東宮懐成(後の仲恭天皇)に譲位し、九条道家は仲恭天皇の外舅として、元関白近衛家実に代わり摂政に就任いたしました。5月15日、後鳥羽上皇と順徳上皇が北条政子・北条義時ら一党の征討を企てましたが敗北し、6月14日に鎌倉方の軍勢が入京、7月7日には仲恭天皇が廃位され、幕府は入道守貞親王の子・茂仁(後の後堀河天皇)を新帝に擁立しました。7月8日、九条道家は摂政の職を解任され、家実が新の摂政に就任。さらに後堀河天皇の来年正月の元服に伴い、家実はこの年の12月20日に太政大臣に任命されました。
- ^ 『尊卑分脈』「道俊」条の記載によれば、道俊は「為祖父道経公子、延慶二年二月八日入滅、八十一」と記されています。
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