薭生城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/25 09:18 UTC 版)
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城郭構造 | 山城 |
築城主 | 毛利時元 |
築城年 | 不明 |
主な改修者 | 北条高広 |
主な城主 | 越後北条氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 曲輪・土塁・堀切・竪堀 |
指定文化財 | 小千谷市指定史跡[1] |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯37度18分35.4秒 東経138度49分57.7秒 / 北緯37.309833度 東経138.832694度 北緯37度18分35.4秒 東経138度49分57.7秒 / 北緯37.309833度 東経138.832694度座標: 北緯37度18分35.4秒 東経138度49分57.7秒 / 北緯37.309833度 東経138.832694度 |
地図 |
薭生城(ひうじょう)は、新潟県小千谷市薭生字城ノ腰に所在する日本の城。1972年(昭和47年)4月1日付けで小千谷市指定史跡に指定されている[1]。
概要
薭生城は有事の際に立てこもる城で、普段は、山麓下の薭生本村に館を構えていた。築城された年代は明らかではない。当初は薭生氏が居城していた。その後、現在の横浜市磯子区にあたる相模国平子郷から来た平子氏(たいらこし)が居城とした。
南北朝時代には長尾氏と共に上杉憲顕にしたがって活躍していた。地理的に上田長尾氏の与力であったが、守護上杉家の譜代の重臣であった。永正の乱では、小千谷は戦略的に重要な地となったが、平子氏は中立を保ち、双方から強い働きかけが行われ、複雑な立場であった。上条の乱では上条方だったが、長尾晴景家督相続後は晴景に従った。上杉謙信の死後の御館の乱では景虎方についたため、景勝方に滅ぼされ、平子氏は同市蘭木に逃げたという。その後、慶長5年(1600年) の上杉遺民一揆では、五智院の僧 海龍が3800人を引き連れ、薭生城に立てこもった。だが、まもなく鎮圧された。
アクセス
- 小千谷駅より越後交通で薭生宮前バス停下車後、中部北陸自然歩道経由で徒歩約30分。
- 小千谷駅から中部北陸自然歩道入り口(極楽寺)まで、徒歩約20分。
脚注
参考文献
- 小千谷市史編修委員会『小千谷の歴史』小千谷市役所。
- 小千谷の歴史編集委員会『小千谷の歴史(二十四版)』小千谷市教育委員会。
関連項目
- 薭生城のページへのリンク