蕭華 (唐)とは? わかりやすく解説

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蕭華 (唐)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/08 05:43 UTC 版)

蕭華(しょう か、生没年不詳)は、唐代官僚政治家

経歴

蕭嵩の子として生まれた。開元21年(733年)、給事中に任じられた。天宝年間、工部侍郎となり[1]、父の爵位の徐国公を嗣いだ。天宝末年、兵部侍郎に転じた。安禄山の乱のとき、に蒙塵する玄宗に従おうとしたが追いつけず、反乱軍に捕らえられて、魏州刺史に任じられた。乾元元年(758年)、郭子儀と9節度使が官軍を率いて黄河を渡り、安慶緒相州に攻撃すると、蕭華はひそかに唐の朝廷に上表を通じて、官軍を待って内応しようとした。反乱軍はそのことを察知すると、蕭華を獄に禁固した。崔光遠が魏州を奪回すると、蕭華を出獄させた。魏州の人々が蕭華の善政について崔光遠に伝え、その留任を請願したため、蕭華は唐の朝廷から魏州刺史に任じられた。史思明が兵を率いて南下してくると、郭子儀は再び蕭華が反乱軍に捕らえられるのを恐れて、崔光遠を蕭華の代わりに魏州刺史とし、蕭華を軍中に召し出させた。相州の官軍が敗北すると、蕭華は長安に帰り、反乱軍についた罪を問われて降格され、秘書少監に試用された。ほどなく尚書右丞に転じた。乾元2年(759年)、河中尹・河中晋絳節度使として出向した[2][3]

上元元年(760年)12月、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)・集賢殿崇文館大学士に任じられ、監修国史をつとめた。ときに宦官李輔国が専ら禁兵をつかさどっており、宰相の地位を求めて、宰臣裴冕らにほのめかして自分を推薦させた。蕭華はこれを拒んだので、李輔国は怒った。ちょうど粛宗が病床にあったことから、李輔国は粛宗の勅命と偽って蕭華を宰相から罷免して、礼部尚書を管掌させ、元載を召し出して蕭華に代わる宰相とした。宝応元年(762年)、粛宗が死去し、代宗が服喪しているあいだに、元載は李輔国の意を受けて、蕭華を硤州員外司馬に左遷した。のちに蕭華は配所で死去した[4][5]

子女

  • 蕭恒(殿中侍御史)[6]
  • 蕭悟(大理司直)[7]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3095.
  2. ^ 旧唐書 1975, pp. 3095–3096.
  3. ^ 新唐書 1975, pp. 3954–3955.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 3096.
  5. ^ 新唐書 1975, p. 3955.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 2283.
  7. ^ 新唐書 1975, p. 2284.

伝記資料

参考文献




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