荒川祐蔵とは? わかりやすく解説

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荒川祐蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/05 00:24 UTC 版)

荒川 祐蔵(あらかわ ゆうぞう、天保3年(1832年) - 明治元年1868年)閏4月6日)は、幕末小栗忠順の家臣。旧姓は江幡。名は尚賢常陸国出身。万延元年遣米使節の随員として渡米したのち、主君小栗とともに上野国権田村に移住し共に処刑された。

生涯

江幡祐蔵は常陸国下吉影村(現・茨城県笠間市)に酒造業を営む俳人・江幡昭眉の次男として生まれた。幼少より郡方手代の大内與一郎に師事して学問を修めた[1]

嘉永元年(1848年)、笠間藩士・富田忠蔵の婿養子となり富田泉蔵と改名したが、嘉永6年(1853年)に離縁。翌7年(1854年)2月、江戸へ出て駿河台の旗本小栗上野介忠順家に寄寓した[1]

安政6年(1859年)、日米修好通商条約批准書交換のために派遣された万延元年遣米使節の随員・小栗忠順に従い、上野介の従者としてアメリカへ渡航した。万延元年(1860年)に帰国。アメリカではジェームズ・ブキャナン大統領に謁見し、その際に記念の銅牌を下賜されたという。この銅牌はのちに下吉影の江幡家に伝えられた[1]

帰国後も小栗の家臣として仕え、上野介に従って上野国権田村(現・群馬県高崎市上里見町)に移住した。

慶応4年(1868年)閏4月4日、戊辰戦争の最中に小栗が東善寺高崎藩安中藩吉井藩兵によって捕縛されると、江幡(荒川)祐蔵も共に拘束された。同月6日、主君小栗忠順とともに水沼河原で斬首。享年36[2]。墓所は東善寺。

慶応年間の活動

慶応2年(1866年)には実業家川崎八右衛門が小栗に面会するため、江幡祐蔵を通じて塚本真彦に紹介状を依頼した記録が残る。川崎は江幡を介して塚本に書簡を送り、小栗への面会を実現している[2]。当時の江幡は休暇を得て水戸の郷里に帰省中であり、郷友として川崎に協力したとされる。

脚注

参考文献

  • 『金沢文庫研究』第7巻(10・11合併号)(72号)、神奈川県立金沢文庫、1961年、22頁。
  • 『小川町のあゆみ』 あけぼの印刷社、1968年、278頁。



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