自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/14 14:42 UTC 版)
自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり(じゆうとわがままのさかいは、たにんのさまたげをなすとなさざるとのあいだにあり)は、福澤諭吉による言葉。
概要
人間というのは誰しもが自由でいたいと思うものなのであるが、自己の自由を追求して行くと他者の自由と衝突することがある。このような場合に、それでもなお押し通そうとすれば我儘になるということである。そこで道徳心を持って抑制することが大人の責任であり、そのように進むことを止めるために社会的なルールや規制が設けられていくこととなる[2]。
明治時代以前にも自由は存在していたのだが、その自由というのは現代の自由とは異なり、我儘に近いものであった。このため福澤諭吉は独立を説いた後にこの言葉で、自由と我儘とは異なるとしていた。この言葉からは我儘というのは他人に迷惑をかけるということが分かるのであるが、他人に迷惑をかけないとされている自由というのは福澤も説明していないし明らかではない。この説明の代わりに福澤はこのようなことを意味する言葉として自由と独立を合わせた自由独立という言葉を用いている。対してそれまでに用いられてきた自由である何でもできるような自由というのは自由自在という言葉で表す[3]。
伊藤公平はこの言葉を持ち出して、自由というのは他人に悪影響を及ぼさない範囲であるということとする。続けて伊藤は、SNSで流されているプロパガンダや偽の情報は人間が作ったものであり、自由を侵すものであるとする。正しい情報であるとしても、ある側面だけを切り取った情報のみをSNSで配信するとなれば、これは相手の自由を制限しているということで悪質であるとする。このため広く様々な側面をとらえた事実に基づく情報を苦労して入手して、それらの情報を多角的に捉える学びを続けて、社会を正しく導く活動に勤しむべきであるとする[4]。
脚注
- ^ “夕歩道:中日新聞Web”. 中日新聞Web. 2025年11月14日閲覧。
- ^ “「自由とワガママとの境とは…」(福沢諭吉)【漱石と明治人のことば6】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト” (2017年1月5日). 2025年11月14日閲覧。
- ^ “「身分制もなくなったし、がんばって勉強して、独立しようね」と諭吉は言った|福沢諭吉の『学問のすゝめ』|橋本治”. 幻冬舎plus. 2025年11月14日閲覧。
- ^ “スピーチテキスト:[慶應義塾]”. www.keio.ac.jp. 2025年11月14日閲覧。
- 自由と我儘との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にありのページへのリンク