羽柴与一郎とは? わかりやすく解説

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羽柴与一郎

(羽柴小一郎_(秀長の子) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/02 01:10 UTC 版)

羽柴 与一郎[1](はしば よいちろう、? - 天正10年〈1582年〉以前[1]、または天正10年[2])は、羽柴秀長(豊臣秀長)の嫡男。木下 与一郎ともいう[3][注釈 1]実名は不明[5]

生涯

羽柴秀長の実子で、嫡男とみられる[6]。母は秀長の正妻慈雲院殿に推定される[7]

与一郎は同時代史料では見られずに、江戸時代に成立した文献『森家先代実録』と『高山公実録』で確認できるのみだが、その内容については信用できるとされる[3]

『森家先代実録』によると、与一郎は秀長の「真子」で[3]那古野因幡守の娘の(智知勝院殿[8]、知勝院殿[9])を妻とした[10]。岩は与一郎の死後、秀長の養女となり、文禄3年(1594年)に森忠政に嫁いだ[11]

『高山公実録』に記載の「郡山城主記」には、秀長の「御実子」が早世したため、天正10年(1582年)に丹羽長秀の三男・千丸(後の藤堂高吉[12])が秀長の養子になったとあり、この早世した秀長の実子が与一郎と考えられる[13]黒田基樹はこの記述から、与一郎が死去した年を天正10年と述べる[2]

また、与一郎という仮名を称していたことから、死去した頃には元服済みだったと考えられる[14]

なお、『森家先代実録』には、与一郎が紀州十津(十津川[注釈 2])の湯に入り、その地で病死したとあるが[15]、これは秀長の養嗣子・秀保の死去との混同によるものと考えられる[16]

脚注

注釈

  1. ^ 『森家先代実録』では「木下小市郎」とも書かれる[4]
  2. ^ 「紀州」とあるが、柴裕之大和国の十津川(現在の奈良県十津川村)とする[1]

出典

  1. ^ a b c 柴 2024, p. 38.
  2. ^ a b 黒田 2025, p. 243.
  3. ^ a b c 黒田 2025, p. 241.
  4. ^ 黒田 2025, pp. 241, 245.
  5. ^ 黒田 2025, pp. 243–244.
  6. ^ 柴 2024, pp. 38; 黒田 2025, pp. 241–243.
  7. ^ 柴 2024, pp. 34, 38; 黒田 2025, pp. 232–233, 243.
  8. ^ 柴 2024, p. 44.
  9. ^ 黒田 2025, p. 244.
  10. ^ 柴 2024, pp. 38, 44; 黒田 2025, pp. 241–242.
  11. ^ 柴 2024, p. 44; 黒田 2025, pp. 244–246.
  12. ^ 柴 2024, p. 39; 黒田 2025, p. 248.
  13. ^ 柴 2024, p. 38; 黒田 2025, pp. 242–243.
  14. ^ 柴 2024, pp. 34, 38; 黒田 2025, p. 243.
  15. ^ 黒田 2025, pp. 241, 243.
  16. ^ 柴 2024, p. 38; 黒田 2025, p. 243.

参考文献




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