紅号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 04:08 UTC 版)
1855年11月、石阡府の毛正年と銅仁府の挙人の梅済鼎・徐廷杰らが苛政に反対して挙兵し、銅仁府知府を殺害し、紅号と称した。5万人を擁し、湖南省から四川省にかけて勢力を拡大したが、毛正年・梅済鼎・徐廷杰はいずれも1856年に戦死した。その後は楊成徳や包茅仙らが抵抗を継続した。
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