米山博久とは? わかりやすく解説

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米山博久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/19 22:46 UTC 版)

米山 博久(よねやま ひろひさ、1915年5月15日 - 1985年6月9日)は、日本の鍼灸師。大阪府鍼灸師会副会長。

経歴

1915年長野県下伊那郡山本村(現・飯田市)に生まれる[1]。高等小学校卒業後、1935年に鍼灸師資格を取得し[1]1936年に東方医学会(大阪)に所属[1]。1946年に刀根山鍼灸医学会を設立し[1]、1950年から1971年まで日本鍼灸師会代議員を務めた[1]。1958年には明治鍼灸専門学校の講師[1]。1960年から1971年、1974年から1975年の4回に渡って、大阪府はりきゅう師試験委員を歴任[1]。1963年から1975年まで大阪府鍼灸師会理事[1]。このほか、1960年に結成された日本針灸皮電研究会(現・日本臨床鍼灸懇話会)理事、大阪府鍼灸師会副会長、大阪鍼灸専門学校(現・森ノ宮医療学園専門学校)校長などを務めた。

1963年に中国の「裸足の医者」に啓蒙されて私塾である土法の会を主宰した。石川太刀雄を筆頭に集まり、塩沢幸吉、木下晴都、倉島宗二、代田文誌、三木健次、森秀太郎、清水千里らと共に内臓体壁反射学説を学んだ。

鍼術は自律神経反射・内蔵体壁反射で説明が付くとして、経絡の概念にとらわれず、一貫して現代医学の手法で病態を把握した[1]。米山の経絡否定論は論争を呼び、経絡を客観的に実証しようとするグループと、経絡説によらずに鍼灸医学を確立しようとするグループの誕生を促した[1]。米山の経絡否定論は言葉こそ過激であったが、科学的な研究方法論の必要性を唱えたものと評される[1]

著書

  • 「小児鍼法」
  • 「痛みの鍼灸治療」
  • 「新しい鍼灸院」
  • 「現代日本の鍼灸」
  • 『現代針灸写真シリーズ 2 呼吸器疾患,小児疾患』鍬谷書店、1971年。ISBN 978-4752910169 
  • 『私の鍼灸治療学』医道の日本社、1985年。 ISBN 978-4752910473 

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 山田 鑑照, 尾崎 朋文, 坂口 俊二, 森川 和宥 (2002). “「経絡論争期の経絡・経穴についての基礎研究」”. 全日本鍼灸学会雑誌 52 (5): 529–552. doi:10.3777/jjsam.52.529. https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1981/52/5/52_5_529/_article/-char/ja/. 

参考文献




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