竹中重寛とは? わかりやすく解説

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竹中重寛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/15 07:18 UTC 版)

 
竹中 重寛
時代 江戸時代後期
生誕 明和5年3月24日1768年5月10日
死没 文化4年8月17日1807年9月18日
改名 池田隆之助→竹中厚之進→竹中元智→竹中重寛
別名 主殿(通称
墓所 泉岳寺
官位 従五位下・遠江
幕府 江戸幕府 大番
主君 徳川家治家斉
氏族 池田氏竹中氏
父母 父:池田政方
養父:竹中元儔または竹中元恭
兄弟 池田政香池田政直、本間季農、池田政宣、重寛池田方教、池田頼功
池田政弼の娘
重光
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竹中 重寛(たけなか しげひろ)は、江戸時代後期の旗本

経歴

明和5年(1768年)、備中国鴨方藩主・池田政方の十男として江戸に生まれた。

天明年間の初め頃、旗本の竹中厚之進が早世した際、公辺内分(幕府に対して無届け)により身代わりとして跡を継ぎ、竹中家に入った[1]。天明3年(1783年)12月7日、徳川家治に拝謁[2]。その後大番頭を務め、従五位下遠江守に叙任された。

文化4年(1807年)8月17日、江戸にて40歳で死去。泉岳寺に葬られた[3]

相続に関して

元々竹中家には、天明元年(1781年)3月5日に14歳で祖父の竹中元儔の跡を継承した厚之進(父:竹中元恭(婿養子。下野国壬生藩鳥居忠意五男)、母:竹中元儔養女(竹中元敏娘。元儔の妹))がいた[2]

この厚之進は将軍御目見前に早世してしまった。竹中家のお家断絶を防ぐため、池田家の隆之助が養子に入り、厚之進に成り代わったとみられている[4]。そのため、『寛政重修諸家譜』では元智(重寛)の存在が池田家の系譜に記されておらず、また竹中家の系譜には重寛が養子であるとの記載はない。隆之助が成り代わった時期については明確ではないが、池田家の状況からみて天明元年(1781年)閏5月から天明2年(1782年)4月までの間とみられる[5]

なお、この内密での相続に関連し、既に幕府に提出されていた「隆之助」(明和2年(1765年)生まれで記載)としての丈夫届については、つじつまを合わせるために弟の池田方教に「隆之助」の通称を名乗らせ、方教はその丈夫届に伴って明和2年(1765年)生まれの扱いにされた[6]

脚注

  1. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.105
  2. ^ a b 寛政重修諸家譜』巻第三百七十
  3. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.105-106
  4. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.106-109
  5. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.113-115
  6. ^ 『お家相続 大名家の苦闘』p.110-111

参考文献

  • 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川書店、2004年)



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