立花城の戦い (1568年)とは? わかりやすく解説

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立花城の戦い (1568年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 19:51 UTC 版)

立花城の戦い(たちばなじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)に筑前国の立花山城(現在の福岡県福岡市東区)で発生した戦闘である。大友氏の家臣であった立花鑑載が主君・大友義鎮(宗麟)に反旗を翻し、立花山城に籠城した。これに対し、大友氏は戸次鑑連(後の立花道雪)や吉弘鎮信らを派遣し、城を攻略した。この戦いにより、大友氏は立花山城を奪還し、北九州における支配を再確立した。

背景

戦国時代中期、九州北部では大友氏と毛利氏の勢力争いが激化していた。1557年、毛利元就は防長経略により大内氏を滅ぼし、その勢力を九州まで拡大させた。これにより、大友氏との間で全面戦争が勃発し、門司城の戦いなど各地で激戦が繰り広げられた。

立花家の家督騒動

1557年、防長経略で、大内家を滅亡させた、安芸国の毛利元就が、九州まで進出。大友との全面戦争が始まる。門司城の戦いで激戦を繰り広げた両家だが、そんないざこざの中、大友義鎮によって立花城主・立花鑑光が誅殺される。結果、立花家の家督は、混乱の中、日田家から養子として入っていた立花鑑載が継いだ。

謀反と鎮圧

1560年、出雲国の尼子晴久の死去により、毛利元就は東方への勢力拡大を図り、大友氏との間で一時的に和睦が成立した。しかし、1566年に尼子氏を滅ぼした後、元就は和議を破棄し、再び九州への侵攻を開始した。毛利氏の調略により、岩屋城高橋鑑種高祖城原田隆種秋月城秋月種実らが相次いで大友氏から離反した。さらに、宗像氏貞や立花鑑載もこれに続いた。

これに憤慨した義鎮は、1567年に戸次鑑連(立花道雪)臼杵鑑速らを秋月城攻略のために派遣した。しかし、毛利軍の猛攻を受け、攻略は難航した。そこで、大友軍は先に立花山城の攻略を優先し、翌年には城を包囲した。ここでも毛利軍の抵抗により攻略は困難を極めたが、城内の野田右衛門大夫を調略することに成功し、ついに城を陥落させた。

立花鑑載のその後

立花山城から逃亡した立花鑑載は、大友方に捕らえられ、自害したと伝えられている。この戦いの後、大友氏は勢いに乗り、残る毛利方の国衆を屈服させ、再び北九州を支配下に置いた。

脚注


参考文献




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