福釜松平家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/19 14:57 UTC 版)
福釜松平家(ふかままつだいらけ)は、松平氏の庶流のひとつ。松平長親の次男・親盛を祖とし、三河国碧海郡福釜(現在の愛知県安城市福釜町)を領したことから福釜松平家と称する。親盛は甥の松平清康に仕えて東三河平定に従い、宇利城の戦いで戦死した[2][3](ただし、戦死したのは2代目の親次であるとする系図もある)。
注釈
- ^ 『寛政譜』による[1]。もとは葵を用いていたが、康親のときに憚って梅を用いるようになったという[1]。『寛永譜』によれば「梅紋」[1]。
- ^ 親次が使用した助宗の槍は、『寛政譜』時点では子孫の松平康珍の家に伝えられているという[4]。
- ^ 宇利城跡の現地掲示板(新城市教育委員会作成)では、宇利城大手で戦死した「松平右京亮」を親盛としている[7][8]。
- ^ 『寛政譜』には、ともに討ち死にした天野忠俊以下の家臣の名も列挙されている[6]。
- ^ 供養塔は、寛保3年(1743年)に当地の領主であった安部信平(岡部藩主)によって建立されたもの[8]。
- ^ 『寛政譜』によれば、天正9年(1581年)6月に徳川家康が二俣城に進発した折に親俊も同行したが、鳥羽山の陣所でにわかに発病、家康自ら薬を与えて福釜に返したが、7月12日に没したという[6]。
- ^ 松平康兼(八左衛門・駿河守)は寛永年間に水戸藩に仕えた。子の康兆を本家の養子としたためか、水戸藩家老松平八左衛門家は無嗣となり、元禄7年(1694年)に1代で絶家している[10]:220。
- ^ 松平伝次郎康珍(康済の長男の家系)、松平東次郎康胤(康済の二男の家系)、松平三郎次郎康年(康末の家系)、松平宇右衛門康能(康勝の家系)。
- ^ 文化財としての指定名称は「絹本著色 福釜松平三代像」3幅[3][11]。
出典
- ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.21。
- ^ “松平親盛”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2021年8月10日閲覧。
- ^ a b “絹本著色 福釜松平三代像”. 安城市文化財目録web. 2021年8月3日閲覧。
- ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.19。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.19-20。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.20。
- ^ “宇利城”. 新城・勝手に応援隊 (2014年5月28日). 2021年8月3日閲覧。
- ^ a b “宇利城址” (pdf). 史実・史跡. 富岡ふるさと会館. 2021年8月3日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.24。
- ^ 三鬼清一郎「水戸藩家臣団の形成過程」『名古屋大学文学部研究論集』第74号、1978年、2021年8月2日閲覧。
- ^ “安城市指定文化財リスト(令和3年4月1日現在)” (pdf). 指定・登録文化財. 安城市. 2021年8月3日閲覧。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻四十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.226。
- 1 福釜松平家とは
- 2 福釜松平家の概要
- 3 系図
- 4 脚注
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