福寿 (元)
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福寿(ふくじゅ、? - 1356年)は、大元ウルスに仕えたタングート人。
概要
福寿は幼いころより聡明なことで知られ、読書に親しんだ。長じると禁軍に入り、その後長寧寺少卿・引進使・知侍儀司事・侍儀使・饒州路ダルガチ・淮西廉訪副使・工部侍郎・僉太常礼儀院事・監察御史・戸部侍郎・戸部尚書・燕南廉訪使・同知枢密院事などの職を歴任した[1]。
1351年(至正11年)、潁州において紅巾の乱が勃発した。この時、トゴン・テムル(順帝ウカアト・カアン)は上都に滞在していたが、福寿の働きかけによって哈剌章・忻都・怯来らを派遣し紅巾軍を討伐することが決められた。1352年(至正12年)にはイェケ・ジャルグチとされたが、すぐに淮南行省平章政事に改められた。このころ、淮南では濠州・泗州が陥落し元軍は敗北を重ねていたが、現地に赴任した福寿は石頭城を築いて守りを固め、反乱軍を寄せ付けなかった[2]。
1355年(至正15年)には江南行台御史大夫の地位に遷った。このころ、楊オルジェイらが率いる「苗軍」が紅巾軍平定に多大な功績をあげていたが、軍紀が緩く略奪を行うことが問題となっていた[3]。さらに、苗軍が上官に当たるアルグイを殺して謀叛すると、強力な軍団を失って高郵県・廬州・和州が次々と陥落し、集慶は孤立した状態に陥ってしまった[4]。このような状況にも関わらず、福寿は志願兵をまとめて守りを固め、朝廷も福寿の労苦を知ってしばしば賞賜を行った[5]。
1356年(至正16年)3月には、江南の群雄の一人の朱元璋によって集慶は包囲された。福寿は守りを固めて抗戦したものの、遂に城は陥落してしまった(集慶の戦い)。他の者たちが逃げ惑う中、福寿は鳳凰台の下で胡床に座して指揮を続け、城からの退去を勧められても「国家の重臣たる者は、城が健在であれば生き、城が敗れれば死ぬものだ」と語って留まったという。最後には敵兵に囲まれて殺され、乱戦の中で遺骸の所在は分からなくなってしまった。この時ともに戦死しした者として、達尼達思・賀方らの名が記録されている[6]。
脚注
- ^ 『元史』巻144列伝31福寿伝,「福寿、唐兀人。幼俊茂、知読書、尤善応対。既長、入備環衛、用年労授長寧寺少卿、改引進使、陞知侍儀司事、進正使、出為饒州路達魯花赤、擢淮西廉訪副使、入為工部侍郎、僉太常礼儀院事、拝監察御史、改戸部侍郎、陞尚書、出為燕南廉訪使、又五遷為同知枢密院事」
- ^ 『元史』巻144列伝31福寿伝,「至正十一年、潁州以賊反告、時車駕在上都、朝堂皆猶豫未決、欲駅奏以待命。福寿独以謂『比使得請還、則事有弗及矣』。於是決議調兵五百、遣衛官哈剌章・忻都・怯来討之而後以聞。順帝善其処事得宜、明年、改也可札魯忽赤。未幾、出為淮南行省平章政事。是時濠・泗倶已陥、師久無功。福寿至、督戦甚急、而上游賊勢甚洶湧、福寿乃議築石頭、断江面、守禦有方、衆恃以為固」
- ^ 植松1997,438頁
- ^ 植松1997,438頁
- ^ 『元史』巻144列伝31福寿伝,「十五年、遷江南行台御史大夫。先是、集慶嘗有警、阿魯灰以湖広平章政事将苗軍来援、事平、其軍鎮揚州。而阿魯灰御軍無紀律、苗蛮素獷悍、日事殺虜、莫能治。俄而苗軍殺阿魯灰以叛、而集慶之援遂絶。及高郵・廬・和等州相継淪陥、而集慶勢益孤、人心益震恐、且倉庫無積蓄、計未知所出、於是民乃願為兵以自守。福寿因下令民多貲者皆助以糧餉、激励士衆、為完守計。朝廷知其労、数賞賚焉」
- ^ 『元史』巻144列伝31福寿伝,「十六年三月、大明兵囲集慶、福寿数督兵出戦、尽閉諸城門、独開東門以通出入、而城中勢不復能支、城遂破。百司皆奔潰、福寿乃独拠胡床坐鳳凰台下、指麾左右。或勧之去、叱之曰『吾為国家重臣、城存則生、城破則死、尚安往哉』。達魯花赤達尼達思見其独坐若有所為者、従問所決、留弗去。俄而乱兵四集、福寿遂遇害、不知所在、達尼達思亦死之。又同時死者、有治書侍御史賀方。達尼達思字思明。賀方字伯京、晋寧人、以文学名。事聞、朝廷贈福寿金紫光禄大夫・江浙行省左丞相・上柱国、追封衛国公、諡忠粛」
参考文献
- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID: 000002623928。
- 『元史』巻144列伝31福寿伝
- 『新元史』巻217列伝114福寿伝
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