知訥とは? わかりやすく解説

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ちとつ 【知訥】

朝鮮高麗の僧で曹溪山修禅社(禅宗)の開祖俗姓は鄭、号は牧牛子。黄海道洞州(現・瑞興郡)の人。八歳出家、『六祖壇経』などを学び新し禅宗確立一二〇五年熙宗から許可された。著『真心直説』他。(一一五八一二一〇

知訥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/15 08:34 UTC 版)

知訥
1158年 - 1210年
1780年松広寺に安置された知訥の肖像画(韓国の宝物第1043号)
俗姓 - 鄭氏
法名 知訥
牧牛子
諡号 仏日
尊称 仏日普照国師
生地 洞州(現在の瑞興郡
宗旨 禅宗
宗派 曹渓宗
寺院 松広寺
宗暉禅師
弟子 真覚国師
慧諶
正宣
守愚
忠湛
著作 『勧修定慧結社文』『牧牛子修心訣』『真心直説』ほか
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知訥(ちとつ、ジヌル、1158年 - 1210年)は、高麗中期の。俗姓は鄭。韓国仏教界で現在最大勢力を誇る曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の宗祖である。

生涯

1158年に洞州(現在の瑞興郡)で生まれる。8歳で禅宗の門に入り、1173年、16歳の時に出家した。戒律は九山禅門の一つである闍崛山系の宗暉禅師から受けた。1182年、25歳の時、科挙の僧科に合格した。1188年、居祖寺で定慧結社を組織し、『勧修定慧結社文』を発表する。1200年、松広山の吉祥寺(現在の松広寺)に行き、頓悟漸修と定慧双修を基にした三門修行を広めた。三門修行とは、惺寂等持門・圓頓信解門・看話径截門の三門で、禅と教とを合わせた禅教一致の修行。

高麗王熙宗は、即位するとすぐに、松嶽山を曹渓山に、吉祥寺を修禅寺に変え、その名を刻んだ扁額を与えた。

1210年に遷化。法堂にて僧徒に説法を行っている最中に亡くなったと伝えられる。死後国師の官位が与えられた。

著書

  • 『勧修定慧結社文』1巻
  • 『牧牛子修心訣』1巻
  • 『真心直説』1巻
  • 『誡初心学人文』1巻
  • 『華厳論節要』3巻
  • 『法集別行録節要并入私記』1巻
  • 『圓頓成仏論』1巻
  • 『看話決疑論』1巻
  • 『念仏要門』1巻
  • 『六祖壇経跋文』1巻
  • 『上堂録』1巻

関係論文

参考文献

  • 金素天「韓国史のなかの100人」明石書店 2002年


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