畠山宣意とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 畠山宣意の意味・解説 

畠山宣意

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 06:02 UTC 版)

 
畠山 宣意
時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 不明
別名 宣郎、畠山三郎、山東三郎
主君 畠山高政
氏族 畠山氏
父母 義父:南之殿
三郎大夫
テンプレートを表示

畠山 宣意(はたけやま のりおき)は、戦国時代後期から安土桃山時代にかけての武将。『紀伊続風土記』などに名前が見える。

概要

宣意は永禄7年(1564年)12月に畠山高政の命で畠山九郎義繁の執権として紀伊国名草郡山東荘の桜山城に入った[1][2]。宣意の家臣である矢野氏の記録によると、当時の山東荘には「南之殿」と「北之殿」の2つの「守護家」があり山東荘を南北に分割して領していた。南之殿は「王家」の支族であったために「王孫」と称していたが、後継者がいなくなったために宣意を養子として南之殿を継承し、後に北之殿も宣意の子孫が継承した。宣意は天正年間に岸野上・田井荘を領して「山東三郎」と称した。天正12年(1584年)には宣意らは小牧・長久手の戦いに参戦するために和泉国に向かったものの和睦が成立したのでそのまま帰国した。翌13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐によって宣意は没落し、三郎の子の三郎大夫は熊野尾鷲浦の農民となり、さらにその子は徳川頼宣に召されて紀州藩に仕えた[3]。同族と見られる人物に、織田信長紀州征伐石山合戦の際に雑賀衆側として戦った畠山義意(山東孫之丞)や山東畠山二郎太夫がいる[4]

脚注

注釈

出典

  1. ^ 高岡義治『旧東山東の生いたち』(高岡義治、1981年)
  2. ^ 仁井田好古等編『紀伊続風土記 第1輯 提綱,若山,名草,海部,那賀』(帝国地方行政会出版部、1910年)
  3. ^ 仁井田好古等編『紀伊続風土記 第1輯 提綱,若山,名草,海部,那賀』(帝国地方行政会出版部、1910年)
  4. ^ 日本歴史地理学会編『歴史地理 11(1)』(吉川弘文館、1908年)

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  畠山宣意のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

畠山宣意のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



畠山宣意のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの畠山宣意 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS