璿派人時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/19 02:44 UTC 版)
親しかった叔父孝宗の即位後1651年(孝宗2年)旧暦6月20日に福寧君に封爵される。1655年(孝宗4年)旧暦4月22日に璿派人(王族)に模試を行わせそれに及第した。それによって1662年(顕宗3年)旧暦2月14日に昭徳大夫となる。明聖王后が温陽温泉へ行く際も同行した。しかし、1670年(顕宗11年)旧暦10月15日福寧君は32歳で死去してしまう。福寧君が死去したことを聞いた顕宗は必要な物品は全て用意され葬儀を執り行った。当時は西人が政治を主導していたために、批判の上奏が寄せられた。ちなみに死後、実弟3人は福寧君の権限を受け継いで西人と勢力闘争するが1680年(粛宗6年)西人側の要求により福昌君を除く2人は処刑されてしまう。1864年(高宗元年)旧暦7月9日に七世孫高宗より諡号の孝献を追尊された。
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