王重栄
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王 重栄(おう ちょうえい、生年不詳 - 887年)は、唐代の軍人。河中節度使。本貫は太原府祁県[1]。
経歴
塩州刺史の王縦の子として生まれた。蔭官により河中軍校に任じられ、兄の王重盈とともに強く勇ましいことで知られた。広明元年(880年)、馬歩軍都虞候となった。黄巣が長安を占領すると、河中節度使の李都は抗戦できず、黄巣の臣を称した。重栄は黄巣により河中節度副使に任じられた。河中は長安に近いことから、際限なく黄巣に物資の供出を求められて疲弊した。重栄は黄巣と断交するよう李都に勧めた。李都が重栄に軍権を譲って行在に赴くと、重栄は河中節度留後となり、黄巣の使者を斬って、隣藩に救援を求めた。黄巣の将の朱温が水軍を率いて同州から、黄鄴の兵が華陰県からやってきて、数万の軍で河中を攻めた。重栄は河中の兵を励まして、朱温らを破った。中和元年(881年)夏、朝廷により検校司空・河中節度使に任じられた[2][1]。
まもなく忠武軍監軍の楊復光が陳州・蔡州の軍1万人を率いて重栄に合流した。黄巣の将の李祥が華州を守っていたが、重栄はこれを攻めて李祥を捕らえた。まもなく朱温が同州ごと重栄に降伏してきた。黄巣は同州・華州を奪回しようと、自ら精兵数万を率いて進軍し、梁田坡にいたった。ときに重栄の軍は華陰県の南にあり、楊復光は渭北にあり、黄巣軍を挟撃した。黄巣の将の趙璋は捕らえられ、黄巣自身も流れ矢に当たって撤退した。しかし重栄も軍の損耗がほぼ半数におよぶ薄氷の勝利であった。重栄は黄巣軍が再び来攻することを恐れて、楊復光と相談し、雁門節度使の李克用の救援を求めることにした。中和3年(883年)、李克用が兵を率いてやってきて、黄巣の軍を破り、長安を奪回した。重栄は功績により検校太尉・同中書門下平章事となり、琅邪郡王に封じられた[3][4]。
光啓元年(885年)、僖宗が長安に帰還したが、黄巣の乱の後で国庫は枯渇していた。観軍容使の田令孜は安邑県と解県の塩池に課税して、軍の給与にあてるよう上奏した。重栄はこれに反対したが、田令孜は聞き入れず、重栄を義武軍節度使に異動するよう上奏した。重栄が異動の命令を受け入れなかったため、田令孜は禁軍を率いて重栄を攻撃した。田令孜が沙苑に駐屯すると、重栄は田令孜を撃破した。12月、田令孜が僖宗を連れて宝鶏県に避難すると、李克用はこれを聞いて、重栄とともに長安に入り、使者を派遣して僖宗を長安に帰還させようとした。光啓2年(886年)、田令孜は恐れて、僖宗を興元府に連れ去った。朱玫が襄王李熅を皇帝に擁立したが、重栄はその命を受けず、李克用の軍と河西で合流して、僖宗の復位を図った。王行瑜が朱玫を殺害し、僖宗が返り咲くにあたって、重栄の功績は多大なものがあった[3][5]。
重栄は法を用いること厳格で、晩年にはその傾向が酷くなった。部下の常行儒はその処罰を受けて、深く恨んだ。光啓3年(887年)6月、重栄は常行儒に殺害された。兄の王重盈が留後に推挙され、常行儒とその一党は殺害された[6][5]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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