王正雅とは? わかりやすく解説

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王正雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/05 01:12 UTC 版)

王 正雅(おう せいが、生年不詳 - 831年)は、唐代官僚は光謙[1][2]本貫太原府晋陽県[3]

経歴

東都留守の王翃の子として生まれた。若くして孝行で行いを慎んで知られた。元和初年、進士甲科に及第した。礼部侍郎崔邠の知遇を受け、節度使の部下を歴任した。元和11年(816年)、監察御史に任じられた。三度異動して万年県令となった[1][2]

当時は穆宗の治世で、長安は統治が困難と言われていたが、正雅は豪族を抑えて弱者を扶助し、為政に名声があった。柳公綽が京兆尹となると、穆宗の前で正雅を褒め、正雅は穆宗に緋衣銀章を賜った。戸部郎中に転じ、ほどなく知御史台雑事を加えられた。二度異動して太常寺少卿となり、汝州刺史として出向し、汝州防禦使をつとめた。宦官が監軍となって、統治に専権を振るったことから、正雅はこれに耐えられず、病と称して辞職した[1][4]

正雅は入朝して大理寺卿となった。宋申錫が弾劾されると、当時の宰相や重臣たちも王守澄の威権をはばかって、弁護しようとする者がいなかった。ただ正雅と京兆尹の崔綰だけが上疏して、宋申錫を弁護したので、宋申錫は左遷されるにとどまった。大和5年(831年)11月、正雅は死去した。左散騎常侍の位を追贈された[5][6]

脚注

  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 4298.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 4692.
  3. ^ 新唐書 1975, p. 4691.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4692–4693.
  5. ^ 旧唐書 1975, pp. 4298–4299.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 4693.

伝記資料

参考文献




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