王処直
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王 処直(おう しょちょく、863年 - 923年)は、唐末から五代十国時代にかけての軍人。義武軍節度使。字は允明[1][2][3]。本貫は京兆府万年県勝業里[4]。
経歴
王処存の従弟にあたる。はじめ定州後院中軍都知兵馬使となった。光化3年(900年)、宣武軍節度使の朱全忠の将の張存敬が滄州に進攻すると、王処存の子で義武軍節度使の王郜は滄州の劉守文と仲が良かったことから援軍を出した。処直は沙河県で張存敬と戦って敗れ、撤退した。処直は王郜を追放し、王郜は太原府の李克用を頼って亡命した。処直は朱全忠に藩属を表明して講和し、義武軍節度留後・検校尚書左僕射となった。光化4年(901年)、義武軍節度使に任じられた。天祐元年(904年)、太保を加えられ、太原郡王に封じられた[1][5][6]。後梁の開平3年(909年)、開府儀同三司・検校太師となり、中書令を兼ね、北平王に進封された[7]。開平4年(910年)、晋王李存勗に降った[8][9]。天祐18年(921年)、養子の王都のために私邸に幽閉された。天祐20年(923年)1月18日、死去した。享年は61。
家族
- 曾祖父:王仁俊
- 祖父:王全義
- 父:王寮
- 養子:王都(もとの姓名は劉雲郎、義武軍節度使・太原郡王)
- 子:王郁(新州団練使、遼の崇義軍節度使)
- 子:王鄑
- 子:王郇
- 子:王邠
- 子:王䢼
- 子:王郴
- 子:王𨛴
脚注
伝記資料
- 『旧唐書』巻182 列伝第132
- 『新唐書』巻186 列伝第111
- 『旧五代史』巻54 唐書30 列伝第6
- 『新五代史』巻39 雑伝27
- 大唐故興国推忠保定功臣義武軍節度易定祁等州観察処置北平軍等使開府儀同三司検校太師兼中書令北平王食邑五千戸食実封三百戸太原王公墓誌銘并序(王処直墓誌)
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
- 『旧五代史』中華書局、1976年。 ISBN 7-101-00321-4。
- 『新五代史』中華書局、1974年。 ISBN 7-101-00322-2。
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