王処存
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王 処存(おう しょそん、831年 - 895年)は、唐代の軍人。義武軍節度使。本貫は京兆府万年県勝業里[1]。
経歴
検校司空・左金吾衛大将軍・左街使の王宗の子として生まれた。代々神策軍に属し、長安の富豪となり、家の財産は数百万におよんだ。処存は右軍鎮遏使を初任とし、驍衛将軍・左軍巡使に累進した。乾符6年(879年)10月、検校刑部尚書・義武軍節度使となった[1][2]。
広明元年12月(881年1月)、黄巣が長安を占領し、僖宗が成都府に避難した。処存は軍を率いて関中に入り、別に2000人を派遣して山南に赴かせて僖宗を護衛させた。処存は河中節度使の王重栄らとともに渭北に陣営を置いた[1][2]。
広明2年(同年)4月、涇原行軍司馬の唐弘夫が黄巣の将の林言や尚譲の軍を破り、勝利に乗じて長安に迫った。処存は渭北から精鋭5000を選抜して白繻と区別し、夜間に長安に入った。黄巣軍は長安を退去し、長安の処存の旧知の者たちは歓呼して処存を迎えた。しかし翌日、黄巣軍は灞上から反撃して再び長安を占領し、長安の壮丁7・8万を虐殺した[3]。
処存は痛哭してやまず、前後10回にわたって雁門節度使の李克用に遣使して迎えた。中和3年(883年)、李克用が黄巣軍を破って、長安を奪回した。処存は功により検校司空に進んだ。中和4年(884年)、処存は大将の張公慶に精鋭3000を与えて派遣し、諸軍と合流させて黄巣軍を泰山に殲滅した。功により検校司徒となった[3][4]。
光啓元年(885年)、田令孜が王重栄を討ち、僖宗が処存を河中節度使に移そうとすると、処存は王重栄の無罪を訴えて、辞退した。のちに侍中・検校太尉を加えられた。乾寧2年(895年)9月、死去した。享年は65。太子太師の位を追贈された。諡は忠粛といった[3][4]。
子の王郜が留後となり、義武軍節度使となったが、光化3年(900年)に朱全忠の将の張存敬に追われて、太原府に亡命した。朱全忠は処存の従弟の王処直を義武軍節度使に立てた[5][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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