瀬底渡し船
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瀬底渡し船(せそこわたしふね)は、沖縄県本部町の瀬底島と本部半島(本部)を結んだ渡船で、瀬底大橋の開通した1985年(昭和60年)まで島民や物資の往来を担った交通手段である。近世以来、渡船の運営には渡守(わたりもり/「渡さし」)や浜番家が関与し、運賃徴収や安全管理などを司った[1]。

歴史
近世の村政下で渡海は制度化され、渡守(渡さし)が置かれた。渡守は運航計画、運賃徴収、秩序維持を担い、浜番家がその中心的役割を果たした。運行には天候や潮位を考慮する規程が設けられ、急患や公用時の取り扱い、免除・減免の条件なども定められていた。[要出典]
船種は時代により変遷し、サバニや山原船(やんばるせん)などが用いられた。これらの小型船は生活物資の輸送に適応しつつ、耐波性や積載の面で改良が進んだと記録される。橋が完成するまでは「第五瀬底丸」をはじめとする渡し船が運行された。[要出典]
渡船は戦前・戦後を通じて通学・通院・流通を支え、島民の生活基盤として機能したが、瀬底大橋の開通により常設の道路交通へと置き換えられた。現地には「瀬底大橋開通記念碑」碑文がある。[要出典]
瀬底大橋の開通と影響
1985年2月13日に開通。橋長762 m、幅員9.5 m、工費57億円、工期は昭和55年(1980年)〜昭和60年(1985年)。橋の完成により島民は長年の海上移動から解放され、路線バスの乗り入れなど生活・物流の利便性が大きく向上した[2]。
発着場
- 瀬底側:主にアンチ浜(現・瀬底大橋の島側袂付近)と白浜(クンリ)が発着点となった。潮位や天候により使い分けられた。 瀬底「瀬底渡し船」歌碑(歌詞に「アンチ」「白浜」の地名言及)
- 対岸(本部側):本部崎(部落崎)が代表的な発着場で、周辺から島との渡海が行われた。 同歌碑(歌詞に「本部崎」言及)

文化
渡船の情景は「瀬底渡し船」(作詞:上間清栄、作曲:龍谷朝仁)として歌われ、2014年(平成26年)に歌碑が建立された[3]。歌詞にはアンチ浜・白浜・本部崎などの地名が詠み込まれ、渡船が地域の生活記憶として伝承されていることが示されている[4]。歌碑と付帯説明板は、橋の完成で役割を終えた渡船への追悼と継承の意義を記し、建立の経緯(寄贈趣意)も示している[5]。
この旧船着場は、住民の通学や日常生活を支える生活インフラとして不可欠であり、「瀬底渡し船」は今でも住民の感謝の対象として語り継がれている[6]。2024年(令和6年)には、この船への感謝を込めた歌詞を刻んだモニュメントも建立された[7]。
交通
渡船時代の航路は瀬底—本部崎(部落崎)間が基本で、瀬底側はアンチ浜と白浜(クンリ)を潮位や風向に応じて使い分けた。悪天候時は運休・安全措置が講じられ、住民の通学・通院、物資輸送に支障が出ることもあった。
橋の完成後は、本部半島側の道路網と直結することで移動の安定性が高まり、緊急搬送や大量輸送の面でも改善がみられた。渡船業務は事実上の役割を終え、日常交通は橋梁と路線バスに移行した。
瀬底大橋の完成後の1986年(昭和61年)、瀬底島に沖縄バスによるバス路線が導入された[8]。瀬底大橋を渡り本部町中心部や名護市と瀬底島を結ぶ路線バスがやんばる急行バス[9]と沖縄バスにより運行されている。
脚注
- 瀬底渡し船のページへのリンク