滝川宗次
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長11年(1606年)[1] |
死没 | 延宝7年9月28日(1679年11月1日)[2] |
別名 | 権之助、壱岐、丹波、縫殿[3] |
主君 | 池田光政 |
藩 | 岡山藩 |
氏族 | 滝川氏 |
父母 | 父:滝川辰政 |
兄弟 | 宗次、求馬[4] |
子 | 一宗[5]、一信[6] |
滝川 宗次(たきがわ むねつぐ)は、江戸時代前期の岡山藩士。通称は権之助、壱岐、丹波、縫殿[3]。
生涯
慶長11年(1606年)、姫路藩主池田輝政の家臣で2000石(のち3000石)を知行する滝川辰政の嫡男として播磨国姫路で生まれた[2]。
寛永18年(1641年)、岡山藩主池田光政から父辰政と別に500石を与えられ、高齢の父の名代を務めるようになった[7]。
慶安元年(1648年)、父の隠居により家督を継ぎ、家禄3000石を相違なく与えられて組足軽30人を預かった。このとき、宗次が知行していた500石は末弟の求馬に与えられて別家を起こした[4]。
寛文2年(1662年)、嫡男の一宗が光政の娘六姫の再婚相手に選ばれるが[8]、延宝2年(1674年)、父に先立って死去した(狂気して自害したと伝わる)[9]。
このため四男杢之丞(一信)を嫡男に立て[6]、延宝6年(1678年)に隠居して家督を譲った[2]。
脚注
参考文献
- 滝川宗次のページへのリンク