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渡辺友水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 07:42 UTC 版)

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渡辺 友水
時代 江戸時代後期
生誕 寛政4年6月4日1792年7月22日
死没 元治元年6月16日1864年7月19日
別名 佑左衛門(通称)、保(名)、帰堂・友水・朔六(俳号)[1]
墓所 相川総源寺
幕府 江戸幕府佐渡奉行所
氏族 渡辺氏
父母 渡辺七郎右衛門
渡辺盧舟
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渡辺 友水(わたなべ ゆうすい)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人。武術・俳諧に通じた。

概要

寛政4年(1792年)6月4日生まれ[1]相川板町に住み、金蔵役、地方掛、小木定番役次席、金蔵定番役を歴任し、江戸には2度赴任した[1]

剣術・槍術に秀で、水替掛在任中水替人足が脱走を企てると、山口番所に急行し、飾り槍を振り回して「佑左衛門ここにあり。汝ら、我が槍を食らってみよ。」と叫び、鎮圧した[1]田付流砲術にも通じ、砲術操練の時には隊長を務めて中砲車台を提げ、数町に響き渡る大声で部下に号令し、これを見た奉行篠山景徳により屯所定番役を命じられた[1]。70代には心働流剣術を試みた[2]

安田花狂には俳諧を学び、公務の傍ら1日に1句を詠んで「塵の山」と題し、嘉永5年(1852年)冬仮名詩と併せて「初心手引草」を編纂した[1]

元治元年(1864年)6月16日73歳で死去し[1]、相川総源寺に葬られた[3]

親族

先祖は甲斐国武田氏家臣で、佐渡金山開発とともに佐渡国に渡った[3]

  • 父:渡辺七郎右衛門 - 文政8年(1825年)没[3]
  • 子:渡辺盧舟(文化11年(1828年)5月3日 - 安政元年(1854年)10月24日)
    通称は舎人、名は鎮、別号は自来舎佳友。最終職階は山方役助。鷲尾甚助に無念流剣術、安田花狂に俳諧を学んだ。天保9年(1838年)一揆鎮圧のため島内を巡察し、『俳諧風車』を編集した[4]
  • 娘:沖津 - 小木港関吏吉田久次郎相有妻。父に俳諧を学んだ[4]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 萩野 1927, pp. 220-221.
  2. ^ 萩野 1927, p. 223.
  3. ^ a b c d e 小林 1985, p. 33.
  4. ^ a b 萩野 1927, pp. 223-224.

参考文献




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