心地覚心
(法灯禅師 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 02:50 UTC 版)
心地覚心(しんち かくしん)は、鎌倉時代の臨済宗の僧。姓は恒氏[1]。諱は覚心、無本と号した。臨済宗法燈派の本山であった興国寺(創建時は西方寺といった、和歌山県日高郡由良町)の開山である[2]。また、臨済宗建仁寺派の妙光寺(京都市右京区)の開山、臨済宗妙心寺派の安国寺(創建時は金宝寺といった、広島県福山市)の開山、臨済宗妙心寺派の安養寺(長野県佐久市)の開山でもある。
- ^ 俗性はまたは、常澄ともいわれる。
- ^ 臨済宗二十四流の一つであったが、その後の歴史的経緯から現在興国寺は臨済宗妙心寺派の末寺となっている。
- ^ a b c d e 『栄西と臨済禅』平凡社発行 禅文研監修 2014年「無本覚心と興国寺」高柳さつき著 70-71p
- ^ 一説には19歳であった説もある。
- ^ その時の度牒には「嘉禎元年10月20日、東大寺戒壇院において受具す」とあり、戒牒には「信州近部県神宮寺の童行の覚心。本州本県の人の事。俗姓は恒氏、年29歳。当寺の住持僧の忠学律師に投じて、度牒を賜い、剃髪受具するものなり。」とあった。(『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』嘉禎元年乙未条)かげまるくん行状集記
- ^ 『元亨釈書』第6、「本朝高僧伝」第20より
- ^ a b 『禅宗の歴史』今枝愛真著 吉川弘文館発行 2013年 鎌倉時代禅宗の興隆 法燈派 39-42p
- ^ 師の無門慧開より「心即是仏仏即是心心仏如々亘 古亘今」との偶を受けて大悟したという。
- ^ 『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』宝祐2年甲寅条
- ^ 願性は俗姓を葛山景倫といい、関東の武士であった。源実朝に仕えており、入宋の命令を受けて九州に渡宋のため滞在していたが、承久元年(1221)実朝が暗殺されたこと聞いて剃髪し、高野山に登った。西入なる者が実朝の頭蓋骨を入手し、将軍の母である鎌倉二品禅定尼真如(北条政子)が西入の恋慕追福の志を視て、由良荘の地頭職を賜った。以上は。かげまるくん行状集記より引用かげまるくん行状集記
- ^ 葛山五郎景倫。願生、願成とも
- ^ 正応2年(1289年)、断髪して法皇となり、正応4年(1291年)に円爾の法嗣で無関普門を開山に迎え、無本に問法した年から10年を経てようやく禅林禅寺(南禅寺)開創を果たした。『宗学概論』第3章日本禅宗史 十方住持刹としての南禅寺 80p 臨済宗黄檗宗連合各派合議所発行 禅文化研究所制作発行 2016年
- ^ 師九十二歳、永仁六年戊戌四月十一日、微疾にして食わず。・中略・同十月十三日、・・・子刻に到って、威儀を厳歛して端坐寂然たり。侍僧奉問して曰く、師臨終かと。師応諾し、泊然として逝くく。坐化微笑、気貌生けるが如し。 以上 『鷲峰開山法澄円明国師行実年譜』
- ^ 『信州佐久いわんだ逸品会歴史編』いわんだ逸品会平成17年
- ^ 発祥の地コレクション
- ^ その時、法燈国師は手巾を解いて、一遍上人に与えて、「此の巾は信を表わす、後人の標準と為すべし」といったという。手巾とは、腰紐のことである。のちの時宗の徒が必ず持参しているとなっている。遊行聖にとって旅の必需品でもある手巾を「信」すなわち印可の証に与えたということであろうか 以上引用 『季刊 禅画報 第4号』念仏禅の頭目だった法燈国師 花園大学助教授 吉田清 千眞工藝発行 1988年5月
固有名詞の分類
- 心地覚心のページへのリンク