永田稠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 永田稠の意味・解説 

永田稠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/09 05:50 UTC 版)

永田 稠(ながた しげし、1881年12月30日 - 1973年1月2日)は、日本の移民事業家。

略歴

長野県諏訪郡豊平村(現・茅野市)出身。諏訪郡立実科中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校・附属中学校)卒業。玉川尋常高等小学校(現・茅野市立玉川小学校)の代用教員を務める。当時の校長は島木赤彦が務めていた。東京専門学校(現・早稲田大学)予科政治科中退。1906年北海道へ移住。1907年渡米青年を援助する日本力行会に入会。1908年渡米し1913年帰国後、日本力行会第2代会長に就任。1922年信濃海外協会設立に参画し理事、日本力行会海外学校設立。1924年ブラジルアリアンサ移住地建設に尽力。1933年関東軍移民部の嘱託として満州の現地視察を行い、ブラジル経験者ならではの批判を込めた報告を関東軍に提出。1934年満州力行学園設立、農業指導者育成を目的とした満州力行農園を開設。1937年満州新京(現・中華人民共和国吉林省長春市)力行村建設に尽力。全村民が組合員となり、産業組合による運営方式をとった。 1938年現地中国人と調和した移住地として満州に新京力行農場を建設。終戦時、地元中国人の全面的協力により全員無事に引き揚げた。墓所は多磨霊園[1]

著書

単著

  • 『南米一巡』日本力行会 1921年
  • 『両米再巡』日本力行会 1924年
  • 『海外立志伝』日本力行会 1926年
  • 『両米三巡』日本力行会 1932年
  • 『日本の外苑 海外に伸びる人々』文教書院 1962年

編著

  • 『信濃海外移住史』信濃海外協会 1952年

参考文献

  • 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ 2004年
  1. ^ 永田 稠”. www6.plala.or.jp. 2024年12月9日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  永田稠のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「永田稠」の関連用語

永田稠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



永田稠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの永田稠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS