正覚寺 (行田市城西)とは? わかりやすく解説

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正覚寺 (行田市城西)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/28 15:50 UTC 版)

正覚寺
所在地 埼玉県行田市城西4-3-21
位置 北緯36度08分08.9秒 東経139度26分31.3秒 / 北緯36.135806度 東経139.442028度 / 36.135806; 139.442028座標: 北緯36度08分08.9秒 東経139度26分31.3秒 / 北緯36.135806度 東経139.442028度 / 36.135806; 139.442028
山号 大雄山
院号 摂聚院
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 天正6年(1578年
開山 証蓮社明誉智教
開基 成田氏長
札所等 行田救済菩薩十五霊場第2番札所、忍領三十三所第2番札所
正覚寺
正覚寺 (埼玉県)
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正覚寺(しょうかくじ)は、埼玉県行田市にある浄土宗寺院。なお、当寺の約5キロメートル南東の同市野に同名の寺がある。そちらの寺は天台宗である。

歴史

1578年天正6年)、成田氏長の開基である。氏長は忍城城主である。氏長は小田原合戦の際には小田原城で籠城し、忍城は娘の甲斐姫と親族の成田長親に守らせた。二人は忍城攻防戦石田三成率いる豊臣軍と戦い、主家の後北条氏が降伏するまで守り抜いた。この戦功と甲斐姫が豊臣秀吉側室になったこともあり、氏長はまもなく下野国烏山2万大名に復帰した[1]

小田原合戦終結後、関東地方の領主として徳川家康が転封され、家康の四男松平忠吉が忍城の城主となった。忍に在封中、忠吉は唯一の実子「梅貞童子」を儲けたが、まもなく夭折してしまった。忠吉は梅貞童子を当寺に葬り、遺品を当寺に納めた[1]

文化財

  • 梅貞童子の御守筒(行田市指定有形文化財 昭和35年3月29日指定)[2]
  • 梅貞童子の墓(平成11年3月25日 昭和49年11月3日指定)[3]

交通アクセス

脚注

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  1. ^ a b 敏蔭英三、秋山喜久夫 著『続・ふるさとの寺』埼玉県郷土史料刊行会、1973年、155-157p
  2. ^ 梅貞童子の御守筒行田市
  3. ^ 梅貞童子の墓行田市

参考文献

  • 敏蔭英三、秋山喜久夫 著『ふるさとの寺』埼玉県郷土史料刊行会、1971年



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