欒氏との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:26 UTC 版)
紀元前552年、欒黶の妻になっていた士鞅の姉妹が、欒黶没後の生活の乱れを子息の欒盈(欒懐子)に指摘されたことを怒り、士鞅に欒盈謀反を讒言する。これを欒氏追い落としの好機と捉えた士鞅は、士匄にあえて讒言を聞き入れるよう進言し、これを受けた士匄は欒盈を追放し、その与党を全滅させて、晋における欒氏の勢力を壊滅させ、同時に士氏の勢力を拡大させた。 後の紀元前550年、斉の荘公の支援を受けた欒盈が、残党を糾合して晋に攻め込んだ際、士鞅は欒盈と親しかった魏舒(魏献子)が支援に回るのを防ぐために、魏舒を公宮へと無理やり連れ出した。この事で欒盈は晋都を攻めきれず、曲沃へと退却するが、士鞅は猛攻をかけて欒盈やその一党を打ち破る功績を挙げた。
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