妙寿尼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/25 00:51 UTC 版)
妙寿尼(みょうじゅに、天文14年2月5日(1545年3月27日) - 慶長18年11月19日(1613年12月30日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。播磨国佐用郡(兵庫県佐用郡佐用町)上月城主・上月景貞(景高・定之)[1]の正室で、平岡頼勝室と黒田正好の母。実名は不詳。院号は遍照院(へんしょういん)。
- ^ 『新訂 黒田家譜』・『上月城史』・『宮田町誌』による。夫を赤松政範とする説もあるが、政範は天正5年12月3日(1578年1月10日)に落城した当時(第一次上月城の戦い)の上月城主であり、この時に妻や2人の幼姫らと共に城内で自刃している(『上月城史』)。
- ^ 『上月城史』・『上月町史』・『真説 黒田官兵衛』による。現在も櫛田の山中には景貞の墓とされる五輪塔が残されている(『上月城史』)。一方、『新訂 黒田家譜』には天正5年12月(1578年1月)に城中の謀反人が上月十郎(景貞)の首を取って差し出し、残る者は皆助命されたことが記されている。
- ^ 『新訂 黒田家譜』では平岡石見守に関して「長政の母の姪婿、黒田次郎兵衛の姉婿」と記しており、黒田長政は妻の従兄弟にあたる。平岡は慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いにおいて主君の小早川秀秋に東軍(徳川家康方)への寝返りを進言した中心人物であるが、長政は以前から姻戚関係を持つ平岡と密かに連絡をとりながら、小早川家の内応工作に深く関与していた。
Weblioに収録されているすべての辞書から妙寿尼を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から妙寿尼を検索
- 妙寿尼のページへのリンク