樺山忠副とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 樺山忠副の意味・解説 

樺山忠副

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/31 14:01 UTC 版)

樺山 忠副(かばやま ただそえ[1]天文6年4月15日1537年5月23日)- 弘治3年4月15日1557年5月13日))は戦国時代薩摩国島津氏の家臣。父は島津氏庶流樺山氏8代当主の樺山善久、母は島津忠良の次女・御隅(島津貴久の姉)。幼名は千代鍋丸、通称は太郎、助太郎。

樺山善久の嫡男として誕生、天文19年(1550年)に祖父・島津忠良の加冠により元服し、天文23年(1554年)には岩剣城の戦いに参加した。弘治3年(1557年)、蒲生氏・菱刈氏との戦いにおいて(纒頭の戦い)、敵陣を攻め破る際に手負いとなり、同日その傷が元で死去した。享年21。法名は「華巌弓木上座」。島津義久が哀悼の和歌を詠んでいる(不詳)。

母の御隅は忠副の死を機に出家し、朝夕怠らず供養の念仏を続けたという[1]

脚注

  1. ^ a b 桐野作人 『さつま人国誌 戦国・近世編2』より

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「樺山忠副」の関連用語

樺山忠副のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



樺山忠副のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの樺山忠副 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS