柳璨
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柳 璨(りゅう さん、生年不詳 - 906年)は、唐代の官僚・政治家・歴史家・文学者。字は炤之[1]。本貫は河中府河東県。
経歴
幼くして父を失い、貧しい生活の中で学問を好み、自然豊かな地方に居住した。昼は薪を採り、夜は木の葉を燃やして読書した。性格は正直で、飾り気がなかった。一族の柳璧や柳玭(柳公綽の孫)が朝廷に仕えていたが、柳璨は質朴で鈍重な性質をいやしまれて、一族に相手にされなかった。光化年間、進士に及第した。漢代の歴史にとくに詳しく、顔蕘に重んじられた。顔蕘が中書舎人となり、判史館をつとめると、柳璨は召し出されて直学士となった。柳璨は劉知幾の編纂した『史通』を批判して、『柳氏釈史』10巻にまとめた。左拾遺に転じた。当時の公卿たちは柳璨の上奏文を入手して称賛し、「柳篋子」と呼んだ[2][1]。
昭宗は文学を好み、はじめ礼部尚書の李磎を寵遇したが、李磎が死去すると、その死を惜しんで李磎に似た文士を求めた。ある人が柳璨を推薦すると、昭宗は柳璨を召し出して会い、『詩経』の10篇を試験すると、その応答に喜んだ。ほどなく柳璨は翰林学士となった。天復4年(904年)1月、司徒・侍中の崔胤が罪を得ると、柳璨は内殿に召し出されて勅命を起草した。まもなく柳璨は諫議大夫・同中書門下平章事(宰相)となり、中書侍郎に転じた。その昇任の速さは異例のことであった[3][1]。
同僚の宰相である裴枢・独孤損・崔遠らはもとより名望があったことから、柳璨はそのあいだで軽んじられ、恨みを抱いた[3][1]。天祐元年(同年)閏4月、昭宗が洛陽に遷都すると、柳璨は同平章事のまま、判戸部事をつとめた[4]。諸司の内使や宿衛の将佐は、みな朱全忠の腹心で固められたが、柳璨はかれらを歓迎して接待した[3]。
天祐2年(905年)3月、柳璨は門下侍郎となり、戸部尚書・同平章事を兼ね、太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・諸道塩鉄転運等使をつとめた[5]。5月、天の西北に彗星が現れ、占者が刑殺によって天変に応じるよう勧めた。柳璨はこれを機に恨みを抱いていた大臣三十数人を相次いで殺すよう上奏し、白馬の禍につながった。朱全忠はこのことを憎んだ。11月、朱全忠が九錫を受けると、王殷が汴州に赴き、蔣玄暉らが李氏の復権を図っていると誣告した。朱全忠は怒り、張廷範を捕らえると、柳璨はその罪に連座して密州司戸参軍に左遷されることになった。まもなく柳璨は官爵を剥奪されて民とされ、崖州に流されることになった[6][7]。12月30日(906年1月27日)、洛陽の上東門外で斬られた[8]。
家族
- 高祖父:柳正礼
- 曾祖父:柳子華
- 叔曾祖父:柳子温(柳公綽・柳公権の父)
- 祖父:柳公器
- 叔祖父:柳公度
- 父:柳仲遵[9]
- 弟:柳瑀(柳璨の罪に連座して笞打たれて死去した)
- 弟:柳瑊(柳璨の罪に連座して笞打たれて死去した)[10]
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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