林川郡
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林川郡(イムチョンぐん、임천군)は現在の韓国忠清南道扶余郡南部地域にあった行政区画である。1914年、扶余郡に統廃合された。
歴史
本来百済の加林郡だったが、757年(景徳王16年)嘉林に直されて熊州に隷属した。995年(成宗14年)林州刺史を置いたが、1018年(顕宗9年)再び嘉林県に直して県令を置いた。1315年(忠粛王2年)、元の平章事阿孛海の妻趙氏の故郷と呼ばれ、知林州事に昇格した。
1394年(太祖3年)、明の朝廷に入った宦者陳漢龍の請で府に昇格した。1401年(太宗1年)に還元され、1403年に再び宦者朱允瑞の請に府になった。1413年、林川に直されて郡となった。1914年、行政区域改編の際、扶余郡に編入され、林川面となった。
林川は地形的に南と東が錦江下流に接しており、北と西は老姑山から伸びた山脈が塞がっており、古くから軍事的に重要視していた場所である。鎮山である聖興山には百済の東城王が築城した山城があった。武霊王の時に加林城主が反乱を起こしたが惨殺されたことがある。
新羅武烈王の時、扶余を攻撃しながら、ここが天恵の要塞とし、攻撃を避け、先に扶余を陥落した後、文武王の時に城を占領した。高麗末期に倭寇が何度もここを攻撃し、宣祖の時に李夢鶴が反乱を起こした時もここを拠点とした。
林川は錦江下流にあったので、朝鮮時代には海倉を置いてここの物産を集めて西海に送った。また、ここは場巌津・古多津・浪清津・菁浦津・南塘津・上之浦津などの多くの港を通じて扶余・石城・恩津・龍安・咸悦・韓山などにつながった。霊楡駅を通じて鴻山と続いて錦江下流の軍事交通の要地だった。ここのカラムシの織物は韓山と共に古くから有名だった[1]。
旧新対照
旧県場 | 1914年 | 現在 | |
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林川郡東辺面 | 扶余郡林川面 | 扶余郡林川面 | 군사리、구교리、칠산리 |
林川郡西辺面 | 만사리、발산리 | ||
林川郡豆谷面 | 두곡리 | ||
林川郡紙谷面 | 옥곡리、탑산리、비정리、가신리 | ||
林川郡城北面점리 | 점리 | ||
林川郡草洞面 | 扶余郡세도면 | 扶余郡세도면 | 청송리(청룡)、간대리、동사리 |
林川郡世道面 | 청포리、귀덕리 | ||
林川郡仁義面 | 장산리、가회리 | ||
林川郡新里面 | 청송리(상송・하송)、수고리 | ||
林川郡白岩面반조원리・화수리 | 반조원리, 화수리 | ||
林川郡白岩面사랑리・산사리 | 扶余郡 장암면 | 사산리 | |
林川郡 남산면 (南山面) | 扶余郡 장암면 | 장하리, 하황리, 상황리 | |
林川郡 내동면 (內洞面) | 정암리, 북고리 | ||
林川郡 북변면 (北邊面) | 합곡리, 원문리 | ||
林川郡 성북면 지근리·토산리 | 지토리 | ||
林川郡 박곡면 (朴谷面) 점상리·구리곡리·지경리 | 점상리 | ||
林川郡 박곡면 만지리·소년동 | 扶余郡 충화면 | 扶余郡 충화면 | 만지리 |
林川郡 팔충면 (八忠面) | 지석리, 천당리, 팔충리, 복금리 | ||
林川郡 가화면 (可化面) | 현미리, 청남리, 오덕리, 가화리 | ||
林川郡 홍화면 (洪化面) | 扶余郡 양화면 | 扶余郡 양화면 | 송정리, 벽용리, 수원리 |
林川郡 상지면 (上芝面) | 상촌리, 시음리 | ||
林川郡 대동면 (大洞面) | 내성리, 암수리, 입포리 | ||
林川郡 적량면 (積良面) | 족교리, 오량리, 초왕리 |
脚注
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