松平直諒とは? わかりやすく解説

松平直諒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/08 08:51 UTC 版)

 
松平 直諒
時代 江戸時代後期
生誕 文化14年10月5日1817年11月13日
死没 文久元年7月19日1861年8月24日[1]
または同年9月5日(同年10月8日[2]
改名 大助(幼名)→直諒
別名 嶺(俳号)、玉峯(画号)、浩斎(書号)
戒名 成徳院殿賢道文哲大居士[1]
墓所 島根県安来市広瀬町城安寺
官位 従五位下佐渡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家慶家定家茂
広瀬藩
氏族 越前松平家
父母 父:松平直寛、母:内藤政韶の娘
兄弟 松平直諒、菅谷政徳、松平直審、蒔田定詢、松平直慈、米津政雅、河野道久、松平直行、町野直在、芦野資貞、松平直巳
正室:宣姫松平義和の娘)
継室:銑姫青山忠良の娘)
大橋某室、松平定法
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松平 直諒(まつだいら なおあき(なおよし / なおあきら))は、出雲広瀬藩の第9代藩主。直政系越前松平家広瀬藩分家9代。

経歴

第8代藩主・松平直寛の長男。母は内藤政韶の娘。

有能で、俳諧・絵画・書道を嗜むなど多趣味な人物で、歴代藩主のほとんどが江戸定府していたのに対して、直諒は嘉永3年(1850年)に父が死去して家督を継ぐと、ただちに国元に入って製糸業や製油業、和紙、鋳物、陶器、織物(広瀬絣)等の産業奨励、文化の奨励などを行い、領民に善政を敷いた名君であった。このため、領民も直諒を暖かく出迎えたという。文久元年(1861年)7月19日(または9月5日)に広瀬にて死去した。享年45。跡を弟の直巳が継いだ。

直諒の文化政策の遺構は、現在においても広瀬町に現存している。直諒だけが歴代で唯一、広瀬町に墓所が存在する。

松平直諒の墓(安来市広瀬町・城安寺)

脚注

  1. ^ a b 『広瀬町史 上巻』広瀬町、1968年、p.169。
  2. ^ 松平直諒」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E8%AB%92コトバンクより2025年5月8日閲覧 




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