村山藤子とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 村山藤子の意味・解説 

村山藤子

(村山於藤 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:44 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

村山 藤子(むらやま ふじこ、本名:村山於藤、むらやま おふじ、1897年4月29日 - 1989年3月20日)は、日本実業家朝日新聞社の社主家として大きな影響力をもち[1]香雪美術館理事長、ロイヤルホテル相談役、大阪国際フェスティバル協会常務理事などを歴任した[1][2]

来歴

朝日新聞』の創業者である村山龍平の一人娘として大阪に生まれ、学校には通わず、京都大学教授らを家庭教師に招いて教育された[1]

1919年、岡部長挙を婿養子に迎えて結婚(村山長挙[2]1933年に父・龍平が死去すると、夫・長挙が会長(後、1940年に社長)となった。やがて藤子は、社長夫人、大株主の社主家として影響力をもつようになっていった[2]

特に1963年以降のいわゆる村山事件など、朝日新聞社の経営陣としばしば対立した[1]。当時、平林たい子は、「村山藤子夫人論」という文章で、「新聞社内の民主化に一老女性がついて行けなかった」と評した[3]

この間、藤子は、朝日ビルディング社長(後、名誉会長)、香雪美術館理事長、ロイヤル・ホテル相談役などを歴任した[2][4]

また、大阪国際フェスティバル協会常務理事として、クラシック音楽の普及にも関わった[2][4]。茶道への造詣も深く、藪内流家元藪内紹智などとも親交があった[4]

脚注

  1. ^ a b c d 20世紀日本人名事典『村山 於藤』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e デジタル版 日本人名大辞典+Plus『村山藤子』 - コトバンク
  3. ^ 藤原惠朝日新聞社事件」『関西学院大学社会学部紀要』第14号、1967年、 65頁。
  4. ^ a b c “本社前社主故長挙氏夫人、村山藤子さん死去”. 朝日新聞・夕刊: p. 19. (1989年3月20日)  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  村山藤子のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「村山藤子」の関連用語

村山藤子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



村山藤子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの村山藤子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS