李敬玄
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李 敬玄(り けいげん、615年 - 682年)は、唐代の官僚・政治家。本貫は亳州譙県[1][2]。
経歴
穀州長史の李孝節の子として生まれた。群書を広く読み、特に五礼を得意とした。貞観末年、高宗が皇太子となると、敬玄は馬周に推薦され、崇賢館に召し入れられた。侍読を兼ね、御書を借りて読んだ。乾封元年(666年)、西台舎人・弘文館学士に転じた。総章2年(669年)、西台侍郎に進み、太子右庶子・同東西台三品を兼ね、検校司列少掌伯(吏部侍郎)を兼ねた。ときに吏部員外郎の張仁禕に時務の才能があったことから、敬玄は諸曹の事務を張仁禕に委ねた。また敬玄は杭州参軍の徐太玄が免官されて、十数年登用されていないと知ると、徐太玄を鄭州司功参軍に抜擢した[3][2]。
咸亨2年(671年)、余官はもとのまま、中書侍郎に任じられた。咸亨3年(672年)、太子右庶子・同中書門下三品を兼ねたまま、銀青光禄大夫の位を加えられ、吏部侍郎を代行した。咸亨4年(673年)、監修国史をつとめた。上元2年(675年)、太子左庶子・監修国史・同中書門下三品を兼ねたまま、吏部尚書に任じられた。敬玄は長らく官吏の選挙の事務にあったことから、多くの人士が集まってきた。前後三回妻をめとったが、いずれも山東の士族の出身であった。儀鳳元年(676年)、中書令となり、趙国公に封じられた[4][2]。
調露2年(680年)、吐蕃の侵入があった。敬玄は劉仁軌と合わず、西辺の鎮守に赴くよう劉仁軌に奏請された。敬玄はもともと軍事の才がないことから、固辞した。高宗に許されず、敬玄は洮河道大総管となり、安撫大使を兼ね、検校鄯州都督をつとめ、兵を率いて吐蕃の防御にあたることになった。副将の劉審礼が先鋒として吐蕃を防いだが、敬玄は吐蕃軍が来攻したと聞くと、狼狽して逃走した。このため劉審礼には後詰めがなく、陣没した。まもなく敬玄には鄯州の防御にとどまるよう勅命があったが、敬玄は病と称して重ねて上表し、長安に帰って医療を受けたいと請願して許された。入朝して高宗に詐病を見抜かれ、衡州刺史に左遷された。しばらくして揚州大都督府長史に転じた。永淳元年(682年)、死去した。享年は68。兗州都督の位を追贈された。諡は文憲といった。著書に『礼論』60巻・『正論』3巻・文集30巻があった[5][6]。
子女
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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