李希光とは? わかりやすく解説

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李希光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/21 01:15 UTC 版)

李 希光(り きこう、生年不詳 - 556年)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人本貫渤海郡蓨県[1][2][3]

経歴

北魏の長広郡太守の李紹の子として生まれた。普泰元年(531年)、高乾の下で高歓の信都起兵に従った。中興元年(同年)、安南将軍・安徳郡太守に任じられた。後に長広郡公高湛の下で開府長史をつとめた。武定7年(549年)、高岳に従って潁川を平定し、義寧県開国侯に封じられた。潁州梁州・南兗州の刺史を歴任した。北斉の天保年間、揚州刺史となった[1][2][3]洛州刺史[4][5]となったともいう。

天保7年(556年)3月、希光は蕭軌・東方老裴英起・王敬宝らとともに長江を渡って柵口に進出し、梁山に向かった。の帳内盪主黄叢の迎撃を受けて敗れ、前軍の船艦を焼かれた。軍を整えて蕪湖を保った。5月、秣陵故城に到達した[4][5]石頭城を襲撃して攻め落とした[1][2][3]。6月、蕭軌らとともに鍾山の西で陳霸先率いる梁軍と戦い、長雨に遭って敗れ、捕らえられて殺害された[6][7][8][9][10][5]開府儀同三司西兗州刺史の位を追贈された[1][2][3]

子に李子令があり、尚書外兵郎中となった。武平末年、通直散騎常侍の位を受けた。開皇年間、易州刺史として死去した[1][2][3]

脚注

  1. ^ a b c d e 氣賀澤 2021, p. 298.
  2. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 300.
  3. ^ a b c d e 北史 1974, p. 1150.
  4. ^ a b 陳書 1972, p. 10.
  5. ^ a b c 南史 1975, p. 263.
  6. ^ 氣賀澤 2021, p. 91.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 61.
  8. ^ 北史 1974, p. 1148.
  9. ^ 梁書 1973, p. 146.
  10. ^ 陳書 1972, p. 11.

伝記資料

参考文献




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