朴響林とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 朴響林の意味・解説 

朴響林

(朴貞林 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/29 16:25 UTC 版)

朴響林
박향림
基本情報
出生名 박억별
別名 朴貞林(박정림
生誕 1921年1月31日
出身地 日本統治下朝鮮 咸鏡北道鏡城郡
死没 (1946-02-08) 1946年2月8日(25歳没)
米軍政 江原道洪川郡
学歴 楼氏女子高等普通学校 卒業
ジャンル トロット
職業 歌手
活動期間 1937年 - 1946年

朴 響林(パク・ヒャンリム、박향림1921年1月31日 - 1946年2月8日)は、おもに日本統治時代の朝鮮で活動した歌手朴貞林(パク・ジョンリム、박정림)という芸名も用いた。

生涯

咸鏡北道鏡城郡鏡城温泉朝鮮語版付近で生まれた。母は飲食店を経営しており、朴響林は元山府楼氏女子高等普通学校朝鮮語版に通って、卒業後はしばらく金融組合朝鮮語版で働いていた。

1937年秋、人気作曲家朴是春が加わっていたオーケーレコードのオーケー演奏団(오케연주단)が地方巡業で来演した際、歌手志望だった朴響林は演奏団を訪ね、歌を歌って見せたが、社長である李哲が反対したため抜擢されなかった、という逸話がある。

朴響林は上京し、オーケレコードの競合他社であるタイヘイレコードを訪ねて歌手としてデビューを果たし、朴英鎬朝鮮語版の「청춘극장(仮訳:青春劇場)」と「서커스 걸(仮訳:サーカス・ガール)」で初めて名を知られるようになった。以後、コロムビアレコードに迎え入れて朴響林の名義で複数のヒット曲を発表した。この時期の代表的な歌としては庶民的な内容を盛り込んだ漫謡朝鮮語版で、朴響林の鼻音がよく似合う「오빠는 풍각쟁이(仮訳:お兄さんは門付け)」[1]金海松とデュエットした「전화일기(仮訳:電話日記)」がある。

コロムビアレコードで大きな人気を得た朴響林は、最初は拒絶されたオーケーレコードにスカウトされ、「코스모스 탄식(仮訳:コスモス嘆息)」や「순정특급(仮訳:純情特急)」といったヒット曲を発表し続けた。ユニークな声と優れた技巧で、漫謡、ジャズ、ブルースを得意とした。当時、活動していた女性歌手の中で、最も都会的で溌剌とした雰囲気の歌を歌い、野心的で正確な歌唱が特徴だった。

太平洋戦争中、李哲オーケーレコードは、親日歌謡普及に動員され、朴響林も、天皇の兵丁になるのが願いで血書を書いてまで志願する、という内容の「혈서지원(血書志願〉」のような軍国歌謡を歌ったことがあった。人気歌手の南仁樹百年雪朝鮮語版と共に歌ったこの歌のため、光復後、すでに朴響林が死亡していた後に、金承学がまとめた親日派名簿に、血書志願者と誤って表記されて、名簿に含まれた[2]。「血書志願」のほかにも「진두(陳頭)의 남편(仮訳:陳頭の夫)」「총후(銃後)의 자장가(仮訳:総後の子守唄)」、「화랑(仮訳:花郞)」などの軍国歌謡を歌ったことが分かっている[3]

1946年に出産した直後、江原道洪川郡で開かれた公演に参加したが、産褥病を発病して夭折した。その年の7月には、東洋劇場で、朴英鎬が追悼の辞を読んで、朴響林追悼公演が開かれた。

脚注

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  朴響林のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朴響林」の関連用語

1
8% |||||

2
8% |||||

3
南仁樹 百科事典
6% |||||

朴響林のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朴響林のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの朴響林 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS