木下茂 (山一證券)
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木下 茂(きのした しげる、1885年 - 1966年)は福岡県出身の実業家。山一證券の会長をはじめ、多くの企業で要職を歴任した。
略歴
1885年(明治18年)5月28日、福岡県八女郡上広川村で西村武助の三男として出生。長崎市・木下キチの養子となり、1912年(明治45年)その家督を相続した[1][注釈 1]。翌1913年(大正2年)に早稲田大学商学部を卒業すると三菱合資会社に入社。長崎支店で勤めた後、1915年に小池合資会社へ転じた[2]。1917年(大正6年)4月、小池合資は山一合資へと改組。1926年(大正15年)には山一證券株式会社となる。茂は同社大阪支店長[3]を経て専務となり、社長の太田収が急逝した1938年(昭和13年)の12月に社長に選任される。山一證券は1943年(昭和18年)9月に小池証券と合併して小池厚之助が社長となる。茂は会長に就任し、1947年までその職を務めた。
また1938年(昭和13年)5月に東洋ベアリング製造(後のNTN)の取締役に就任。1947年(昭和22年)から1956年まで同社会長を務めると同時に、1950年(昭和25年)2月より1956年まで日本証券金融会長[4]。その他、日本ドラム缶製作所の会長や、長男が社長に就いた東洋運搬機の相談役も務めている。1966年(昭和41年)3月31日、東京都港区内の病院で死去。享年80[5]。
家族
- トシ(先妻)- 1890年(明治23年)3月に長崎県・永見寛三の長女として生まれ、株式会社長崎株式取引所の代表を務めた山口豊三郎[6]の養女となり、茂に嫁ぐ。
- 絹子(後妻)- 1914年(大正3年)7月7日生まれ。
- 木下高明(長男)- 1916年(大正5年)11月生まれ。早大商科を卒業後に東洋運搬機に入社。取締役を経て社長に就任。妻の美代子(1925年生)は東洋運搬機社長・丹羽昇の長女[7]。
- 昌子(長女)- 1914年(大正3年)7月生まれ。東洋運搬機取締役で海外事業部長を務めた大月一夫に嫁ぐ。
- 光子(二女)- 1921年(大正10年)10月生まれ。東洋運搬機取締役で名古屋支店長を務めた大槻正比古に嫁いだ。
- 木下武久(二男)- 1924年(大正13年)11月生まれ。東京音楽学校卒業後にドイツへ渡り、ミュンヘン音楽大学を卒業した。東京放送勤務。妻はドイツ人のギレラ[7]。
- 木下和茂(三男)- 1941年(昭和16年)10月生まれ。学習院大学卒業。三菱重工勤務。
- 木下和之(四男)- 1946年(昭和21年)3月生まれ。学習院大学にて学ぶ。
脚注
注釈
- ^ 養子入りし、木下家の人間となったことで以降は長崎出身と称する。
出典
- ^ 『業界人物名鑑』経世社、1939年、89頁。NDLJP:1444942/57。
- ^ 『大衆人事録』(第24版 東日本篇)帝国秘密探偵社、1965年、435頁。NDLJP:3025817/219。
- ^ 『人事興信録』(第11版 上)人事興信所、1937年、キ之部 13頁。NDLJP:2127093/740。
- ^ 『人事興信録』(第19版 上)人事興信所、1957年、き之部 6頁。NDLJP:3022377/389。
- ^ 「木下茂氏 訃報」『朝日新聞』1966年4月1日、東京版、朝刊15頁。
- ^ 『長崎県人事興信録』(1935版)長崎日日新聞社、1934年、344頁。NDLJP:1225199/189。
- ^ a b 『人事興信録』(第23版 上)人事興信所、1966年、き之部 12頁。NDLJP:3044977/723。
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