木下哲三郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 木下哲三郎の意味・解説 

木下哲三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 05:37 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

木下 哲三郎(きのした てつさぶろう、1853年2月6日嘉永5年12月28日[1]) - 1907年明治40年)7月30日[2][3])は、明治時代の司法官大審院判事

経歴

肥後熊本藩熊本城下新屋敷町(熊本区を経て現熊本市)出身[2]1874年(明治7年)法学試験生徒となり[1]、フランス法学を学ぶ[3]

累進して1886年(明治19年)司法省参事官となり、1890年(明治23年)大審院判事に進んだ[1]1891年(明治24年)ロシア皇太子を負傷させた大津事件の裁判にあたり、大審院判事として判決に関わった[3]

ほか、会計検査官懲戒裁判所裁判官や判検事登用試験委員[1]明治法律学校講師[4]を歴任した。1907年(明治40年)7月30日、脳溢血により死去した[2]

親族

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d 人事興信所 1903, 990頁.
  2. ^ a b c 大植 1935, 1037頁.
  3. ^ a b c 上田ほか 2001, 626頁.
  4. ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、145頁
  5. ^ 人事興信所 1915, し16頁.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  木下哲三郎のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「木下哲三郎」の関連用語

木下哲三郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



木下哲三郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの木下哲三郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS