朝酌岩屋古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 06:57 UTC 版)
朝酌岩屋古墳 | |
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墳丘・石室開口部
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所在地 | 島根県松江市朝酌町(字岩屋屋敷) |
位置 | 北緯35度27分42.38秒 東経133度6分13.00秒 / 北緯35.4617722度 東経133.1036111度座標: 北緯35度27分42.38秒 東経133度6分13.00秒 / 北緯35.4617722度 東経133.1036111度 |
形状 | 不明(方墳?) |
埋葬施設 | 石棺式石室 |
築造時期 | 6世紀代 |
史跡 | なし |
地図 |
朝酌岩屋古墳(あさくみいわやこふん)は、島根県松江市朝酌町にある古墳。史跡指定はされていない。
概要
島根県東部、松江低地東縁の丘陵端部に築造された古墳である。墳丘は改変されているほか、発掘調査は実施されていない。
墳丘周囲は削平されており、元の墳形は不明であるが、現状では直径20メートルの円墳状を呈する[1](元は一辺30メートル程度の方墳か[2])。埋葬施設は石棺式石室で、南方向に開口する。玄室が切石の組み合わせで石棺状に構築された石室であり、出雲地方東部に分布する石棺式石室のなかでも、定型化前の古い段階の例とされる。石室内の副葬品は詳らかでないが、墳丘の測量調査時に須恵器片(子持壺脚部・壺口縁部・甕片)が採集されている[3]。築造時期は古墳時代後期の6世紀代と推定される。
遺跡歴
埋葬施設


埋葬施設としては石棺式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:約5.4メートル
- 玄室:長さ1.9メートル、幅3.1メートル、高さ2.1メートル
- 羨道:長さ3メートル、幅1メートル、高さ1.5メートル
玄室は石室主軸に直交する横長の平面形で、長側辺に平入りで羨道が接続する。石室の石材は流紋岩質軽石火山礫凝灰岩(荒島石)で[2]、大型の切石が使用される。玄室の奥壁は上部に小型の切石を積み、側壁は一枚石である。前壁には切石3枚を組み合わせており、玄門部の周囲には閉塞石を受けるための刳り込みを施し、床には梱石を置く。羨道部も切石を立てて構築され、羨門部には板石による閉塞石(一部残存)を設ける[1]。
平入りの横長長方形の玄室平面形の点、玄門が複数の石材で構成される点で、定型化前の古い段階の石棺式石室と位置づけられる。朝酌地域の石棺式石室としては、朝酌岩屋古墳→朝酌小学校校庭古墳→阿弥陀寺古墳の築造順と推測され、山代二子塚古墳→山代方墳→山代原古墳(永久宅後古墳)と変遷する出雲東部最高首長層の山代・大庭古墳群との関係性が注目される[2]。
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玄室西壁
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玄室奥壁(北壁)
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玄室東壁
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玄室前壁(南壁)
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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開口部
脚注
- ^ a b c 日本古墳大辞典 1989.
- ^ a b c 「古墳をめぐる環境」『島根県松江市朝酌町 廻原1号墳発掘調査報告書』島根大学法文学部考古学研究室・廻原1号墳発掘調査団、2016年(リンクは島根大学学術情報リポジトリ)。
- ^ a b 松江市史 史料編2 考古資料 2012.
参考文献
(記事執筆に使用した文献)
- 渡辺貞幸「岩屋古墳 > 朝酌岩屋古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「朝酌岩屋古墳」『松江市史』 史料編2 考古資料、松江市、2012年。
関連文献
(記事執筆に使用していない関連文献)
- 梅原末治・石倉暉榮「出雲に於ける特殊古墳(中ノ下)」『考古學雜誌』第11巻第3号、考古學會、1920年11月、129-142頁。
- 『石棺式石室の研究 -出雲地方を中心とする切石造り横穴式石室の検討-』出雲考古学研究会〈古代の出雲を考える6〉、1987年。
- 松本岩雄「朝酌岩屋古墳・廻原1号墳」『古代出雲を歩く』山陰中央新報社、1997年。
- 『遺跡と地域と考古学 -実践30年の歩み、「石棺式石室の研究」補遺-』出雲考古学研究会〈古代の出雲を考える9〉、2007年。
関連項目
- 朝酌岩屋古墳のページへのリンク