朝倉教景_(宗滴の兄)とは? わかりやすく解説

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朝倉教景 (宗滴の兄)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/11 14:13 UTC 版)

 
朝倉教景
時代 室町時代中期 - 後期
生誕 寛正3年(1462年[1]
死没 文明16年7月13日1484年8月4日
改名 小太郎、教景
戒名 以千宗勝禅定門
幕府 室町幕府
氏族 朝倉氏
父母 父:朝倉孝景、母:桂室永昌大姉(逸見氏養女で、温科氏娘)
養父:朝倉光玖
兄弟 氏景、景明、孫四郎、景総教景(以千宗勝)、時景(景親)、景儀、教景(宗滴)
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朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、室町時代中期から後期にかけての武士朝倉氏の一族。

略歴

朝倉氏7代当主・朝倉孝景(英林)の子として誕生した。同腹の弟に、この兄の死後に同じ仮名を名乗った小太郎教景(宗滴)がいる。朝倉家には他にも教景を名乗った人物が多数いるため、この人物はしばしば法名の以千宗勝を併記して区別される。

孝景と正室桂室永昌の間に生まれた嫡系の男児で、叔父である光玖の養子(猶子)となり、庶系である兄の景総より常に上席として扱われた。景総はこれを恨みに思い、文明16年(1484年)7月13日に相撲場において教景を殺害したという。

曽祖父教景以降3代にわたる朝倉宗家当主の仮名「小太郎」を称し、さらに朝倉家にとって由緒ある諱「教景」を名乗っていることから、以千宗勝あるいは宗滴の2人の教景こそが英林孝景の本来の家督継承者であったとする見方がある[2]

脚注

  1. ^ 文明3年(1471年)から永禄7年(1564年)までの朝倉氏の合戦記録である「当国御陳之次第(当国御陣之次第)」に文明12年(1480年)芝原合戦に19歳で大将として出陣したとある。参考文献「朝倉孝景」p.227、「越前朝倉氏の研究」p.269、同p.530-32(「当国御陳之次第」全文)などに記述。
  2. ^ 水藤『朝倉義景』p.31-32。

出典

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