明白寺_(瑞浪市)とは? わかりやすく解説

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明白寺 (瑞浪市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/26 10:47 UTC 版)

明白寺 めいはくじ
所在地 岐阜県瑞浪市明世町山野内698
位置 北緯35度22分4.80秒 東経137度13分46.84秒 / 北緯35.3680000度 東経137.2296778度 / 35.3680000; 137.2296778座標: 北緯35度22分4.80秒 東経137度13分46.84秒 / 北緯35.3680000度 東経137.2296778度 / 35.3680000; 137.2296778
山号 佛日山
宗派 黄檗宗
本尊 釈迦牟尼仏
開山 先覚周恬
中興年 延宝3年(1675年
中興 雲峯元冲
札所等 美濃瑞浪三十三観音霊場二十九番
文化財 五輪塔
法人番号 8200005008622
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明白寺(めいはくじ)は、岐阜県瑞浪市明世町山野内にある黄檗宗の寺院。山号は佛日山。

歴史

明白寺の境内には、南北朝時代初期以前の大型五輪塔(四尺塔)や、南北朝時代から室町時代後期の5基の宝篋印塔があるので、前身の明白庵は、鎌倉時代末頃に創建されて室町時代後期まで続いた庵寺と考えられる。

明白庵は、現在の寺地の下(南方100m)の山門西側付近にあったとされる。

室町時代の(1365~1370年)頃に、夢窓疎石の法嗣の先覺周恬が、土岐郡肥田村天福寺を勧請開山した後に、山野内村の明白庵に閑居した[1]。しかし明白庵から天福寺へ招かれたとも考えられる[2]

先覺周恬は、さらに京都に證明寺[3]を開創し、応安6年(1373年)1月20日に遷化した。

夢窓疎石の法嗣で先覺周恬の法兄の鐵舟徳斎[4]による「濃州明白庵五境」については、次のとおりである。

  • 照碧軒
  • 蟠龍池
  • 座禅岩
  • 來雨瀑
  • 望月亭

永禄8年(1565年)、武田信玄の重臣であった秋山虎繁と野村長門守が土岐郡に侵攻した。神篦城付近で織田方と両軍が衝突した(高野口の戦い)。

秋山は配下の仁木(山中)藤九郎なる者に150騎を授けて土岐郡の寺社を悉く焼討した[5]。この時に明白寺・定林寺天福寺光善寺酒波神社が焼討されて明白寺は一旦廃寺となったが、後に地蔵堂として復興した。

延宝3年(1675年)、滋賀県近江八幡市にある正宗寺の雲峯元冲が、黄檗宗に改宗して再興した。

二世の天眞元正、三世の仙瑞廣光も正宗寺から入っている。

令和2年(2020年)12月、明白寺で武田信玄を描いたとみられる肖像画が見つかった。

肖像画は縦約70cm、横約30cmの掛軸に、合戦で着用する鎧姿が正面から描かれている。

寺を再興した雲峯元冲が、信玄の玄孫であったことから、肖像画を持っていたと考えられるという。

明白寺五輪塔

明白寺の境内にある五輪塔は花崗岩で造られており、高さは約137cm。造立時期は、南北朝時代14世紀)頃と推定されている。

室町時代に永保寺の修行僧が造立したものと伝えられているが、また一説には土岐頼貞の九男である長山頼基の墓とも言われており、瑞浪市の文化財に指定されている。

由来については、室町時代に虎渓山永保寺(多治見市の臨済宗寺院)の修行僧が造立したものと伝えられ、また一説には土岐頼貞の九男である土岐頼基の墓ともいわれています。

指定文化財・天然記念物

瑞浪市指定有形文化財

(石造物) 指定年月日:昭和58年(1983年)1月21日 指定番号:瑞有31

関連リンク

参考文献

  • 『瑞浪市史 歴史編』 第六編 近世 第五章 文化と信仰(文化宗教史) 第二節 神社と信仰 ニ 市内の近世寺院 市内の各寺院 p1038 瑞浪市 昭和49年(1974年)
  • 『ふるさとの歴史 : 郷土学習のための各町概史 (瑞浪市郷土史シリーズ ; その1)』 明世町概史 二 山野内村 近世 山野内村 明白寺 p104~p105 渡辺俊典 瑞浪市郷土史研究会 1983年
  • 『土岐市史 1 (原始時代-関ケ原合戦)』第八編 鎌倉室町時代の宗教概観 第三章 郷土寺院の変遷 八 定林寺・明白寺兵火について p235~p241 土岐市史編纂委員会  1970年
  • 『肥田町史』 第九章 寺院と寺社 第一節 寺院 瑞浪市の明白庵 p292~p295 肥田町史編纂委員会 平成8年 

脚注

  1. ^ 玉村竹ニの玉村稿
  2. ^ 肥田町史 p294
  3. ^ 廃寺
  4. ^ 臨済宗夢窓派の禅僧。法諱は徳済、道号は鐵舟。下野国の人。入元し、竺田悟心や古智慶哲、古林清茂ら高僧に参じた。順帝より圓通大師の号を特賜され、暦応4年(1341年)頃に帰国。京都天龍寺の夢窓疎石会下に秉払を勤め、貞和3年(1347年)、阿波の補陀山に住して疎石の法を嗣いだ。その後、五山の一つである京都万寿寺第29世を嗣席。晩年は播磨の瑞光寺に住し、また京都嵯峨の龍光院に閑居。貞治5年(1366年)に示寂した。著作に『語録』と『閻浮集』がある。鐵舟は余技として画を描いたが、なかでも墨蘭は、元における墨蘭の名手である雪窓普明に感化を受けているとされる。入元中に直接学んだ可能性があることも指摘されている。
  5. ^ 酒波神社の棟札による永禄元年(1558年)説と永禄8年(1565年説)がある。



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