政景の謀反
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 16:24 UTC 版)
政景は、景虎の守護代就任と家督相続を快く思っていなかった。晴景に味方したことに加え、景虎の母の実家である古志長尾家の勢力拡大なども原因と考えられる。そんな中、天文19年(1550年)2月26日に上杉定実が死去する。直後の28日、景虎は時の将軍である足利義輝から白傘袋と毛氈の鞍覆の使用を許される。実質的な国主大名の待遇である。同年12月28日政景は坂戸城に籠り、謀反を起こす。景虎は、会津の黒川城主(会津若松市)の蘆名盛氏が政景に加担することを恐れて、ただちに蘆名氏の臣松本右京亮に政景謀反を伝え、先手を取った。
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