戸川達索とは? わかりやすく解説

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戸川達索

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/21 14:19 UTC 版)

戸川 達索(とがわ みちのり、元禄12年(1699年) - 寛延元年11月13日1749年1月1日[1])は、江戸時代旗本交代寄合)・知行5000。官位は従五位下、土佐守。正室は横山忠知の娘。子に達恒、娘に交代寄合本堂家の本堂豊親[2]室、三好倚長[3]室、堀利正室、加藤正修室、宮原義潔室。

経歴

備中撫川の交代寄合・達富の長男として生まれた。母は本堂玄親の娘。

享保14年(1729年)、父の死去により家督を相続した。

享保17年(1732年)、享保の飢饉により自身の知行領内も被害が出たため、領民救済策として年貢率を4割5分(2471石)から2割3分7厘(1189石)に減免しつつ、幕府に請いて1000の拝借金を嘆願した。また領内の有力者である大賀喜右衛門にも金策の相談をするなど、手立てを尽くした。

延享4年(1747年)5月15日、大番頭に就任し、同年12月19日に従五位下・土佐守に叙任された。

寛延元年(1748年)、大番頭として大坂在番(大坂城の警備)中に急逝した。跡目は長男の達恒が継いだ。

脚注

  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第九百七十三
  2. ^ 本堂家とは数代の縁がある。豊親の親の苗親は達索の弟であるため、いとこ婚となる。
  3. ^ 倚長の実母は達索の妹であるため、いとこ婚となる。
先代
戸川達富
戸川宗家当主
7代:1729年 - 1748年
次代
戸川達恒
先代
戸川達富
撫川戸川家当主
2代:1729年 - 1748年
次代
戸川達恒



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