後藤兼三とは? わかりやすく解説

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後藤兼三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/01 15:58 UTC 版)

後藤 兼三(ごとう けんぞう、1879年明治12年)6月15日 - 1937年昭和12年)2月6日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は海軍少将

人物・経歴

福岡県出身。1897年福岡県立尋常中学修猷館を経て[1]、1902年海軍機関学校(10期)を卒業[2]。1905年日露戦争における日本海海戦に、連合艦隊旗艦である戦艦三笠の分隊長として出征する。

1907年海軍大学校を卒業。1909年から1912年にかけて米国駐在。1912年防護巡洋艦対馬機関長、海軍大学校教官、1916年戦艦安芸機関長、1917年海軍機関学校教官、1919年第二水雷戦隊機関長などを歴任。1920年から1922年にかけて造船造兵監督官として英国出張。1923年海軍省機関局第1課長を経て、1924年少将となる。1925年予備役に編入された[3]。その後、日本電波社長などを務めた。

脚注

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  1. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』同窓会員2頁
  2. ^ 水交会編『海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校』秋元書房、1971年、262頁。
  3. ^ 『陸海軍将官人事総覧』(芙蓉書房出版、1993年)265頁

参考文献




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