平井毓太郎とは? わかりやすく解説

平井毓太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/16 15:04 UTC 版)

ひらい いくたろう
平井 毓太郞
生誕 1865年11月28日
三重県
死没 (1945-01-12) 1945年1月12日(79歳没)
居住 日本
ドイツ帝国
国籍 日本
研究分野 医学
研究機関 京都府立医学校
京都帝国大学
出身校 帝国大学医科大学卒業
指導教員 エルヴィン・フォン・ベルツ
主な指導学生 竹內薰兵
主な受賞歴 帝国学士院賞(1932年)
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

平井 毓太郎(ひらい いくたろう、1865年11月28日慶応元年10月11日) - 1945年(昭和20年)1月12日)は、日本の医学者小児科医京都帝国大学教授。旧姓木場。三重県出身。

プロフィール

人物

  • ベルツの弟子で、代診を命じられるほど信頼を置かれた。
  • 健康のため、早朝と午後の散歩を日課とした。一日2里(8キロ)は歩き、常に歩数計を身につけていた。
  • 数十年にわたって一人暮らしだったが、夏にも袴をつけるなど、厳格な暮らしぶりを通した。
  • 英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を日々欠かさなかった。その成果は、月に一度の小児科医への講義に反映された。数年前に抄録した内容を思い出し、わざわざ屋根裏部屋にノートをとりに行く平井の姿を、参加者のひとり松田道雄はエッセイにとどめている。
  • 東大医学部の医学生時代に同期だった伊藤隼三と親交が深く,卒後はそれぞれ内科のベルツ,外科のスクリバに師事した.後に二人とも京都帝国大学の教授として再会.平井は初代小児科学講座教授,伊藤は初代外科学第二講座教授として活躍した.

家族

娘・照子の婿・平井金三郎は岩村高俊の三男[2]

門下生

脚注

  1. ^ 平松隆円『化粧にみる日本文化』水曜社、2009年、154頁
  2. ^ 平井金三郎(1884~1972)
  3. ^ 竹內薰兵「平井毓太郞先生」『日本醫事新報』1247号、日本醫事新報社、1948年3月1日、225頁。

参考文献

  • 松田道雄「両棲類的読書法」『私の読書法』(岩波新書、1960年)
  • 北村晋吾『平井毓太郎伝』(1997年)




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平井毓太郎」の関連用語

平井毓太郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平井毓太郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの平井毓太郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS