嶋田政辰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/31 04:02 UTC 版)
時代 | 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 寛文元年(西暦1661年) |
死没 | 享保8年2月7日(西暦1723年) |
改名 | 元覚 |
別名 | 市十郎 久太郎 治太郎 十兵衛 |
墓所 | 埼玉県坂戸市仲町の永源寺 |
官位 | 従五位下、弾正忠、佐渡守 |
主君 | 家綱 |
氏族 | 坂戸島田氏 |
父母 |
父:島田利由 母:島田利香の娘 |
妻 | 北条氏平の娘、江馬成次の娘 |
子 | 嶋田政之 |
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2025年3月) |
島田 政辰(しまだ まさたつ)は江戸時代初期の武士(旗本)。
生涯
延宝2年(1674年)7月18日、13歳の時に初めて徳川家綱拝に拝謁し、天和3年(1684年)9月25日には小姓組の番士となる。
元禄元年(1688年)には進物番、元禄3年(1691年)には桐間番をつとめたのち、中奥小姓、徒歩組の頭に任命され、元禄14年(1702年)に布衣を着ることが許された。翌年、元禄15年(1703年)には下野国の500石を知行された。
宝永元年(1704年)には御書院番の組頭に任命され、宝永2年(1705年)、武蔵国入間郡、上野国邑楽、上野国山田、下野国梁田郡にて2500石を知行。
脚注
- 嶋田政辰のページへのリンク