岐阜県立益田高等学校下呂分校とは? わかりやすく解説

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岐阜県立益田高等学校下呂分校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 04:13 UTC 版)

岐阜県立益田高等学校下呂分校
国公私立の別 公立学校
設置者 下呂町
設立年月日 1948年昭和23年)
閉校年月日 1974年(昭和49年)
共学・別学 男女共学
課程 定時制
設置学科 普通科・農業科・家庭科
所在地 509-2205
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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岐阜県立益田高等学校下呂分校(ぎふけんりつましたこうとうがっこう げろぶんこう)とは、かつて岐阜県益田郡下呂町(現在の下呂市)にあった公立高等学校分校

概要

益田高等学校の定時制の分校であった。岐阜県立の高等学校の分校であったが、設置者は下呂町であった[注釈 2]

1974年昭和49年)、下呂町内に益田南高等学校の新設されるために廃校。廃校後、生徒は益田南高等学校に転入した。

沿革

  • 1948年(昭和23年)
    • 9月18日 - 益田郡の四ヶ町村[注釈 3]で学校組合を結成。益田郡下呂町に益田高等学校の定時制分校の設置が決まる。
    • 11月 - 岐阜県立益田高等学校下呂分校として開校。定時制(昼夜間)高校で、普通科、農業科、家庭科を設置。校舎は下呂町森960[注釈 4]の旧・下呂町青年学校の校舎を使用する。開校時の生徒数は141名。
  • 1951年(昭和26年)8月1日 - 下呂小学校の校舎内に移転。
  • 1955年(昭和30年)4月1日 - 下呂町、竹原村上原村中原村が合併し、下呂町が発足。同時に益田高等学校下呂分校の設置者は下呂町となる。
  • 1959年(昭和34年)2月 - 下呂町少ヶ野に校舎を新築し、移転。
  • 1974年(昭和49年)3月31日 - 廃校。

脚注 

注釈 

  1. ^ 現・下呂市少々野。
  2. ^ 岐阜県の高等学校の定時制分校は、通称「岐阜県方式」という制度により、分校のある市町村や学校組合が設置者となり、運営と費用負担を行った。指導と教職員の派遣は岐阜県が行った。
  3. ^ 下呂町・竹原村上原村中原村
  4. ^ 現在の下呂市役所の場所。

出典

参考文献

  • 飛騨下呂:通史・民俗(下呂町史編集委員会・1990年)P.353 - 354
  • 下呂町誌・全(下呂町誌編纂委員会・1954年)P.390 - 391
  • 岐阜県定通教育三十周年記念誌(岐阜県高等学校定時制通信制三十周年記念会・1978年)P.97

関連項目




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