岐阜県立益田高等学校濃斐分校とは? わかりやすく解説

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岐阜県立益田高等学校濃斐分校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/07 04:13 UTC 版)

岐阜県立益田高等学校濃斐分校
北緯35度39分38秒 東経137度09分33秒 / 北緯35.6606183度 東経137.159213度 / 35.6606183; 137.159213座標: 北緯35度39分38秒 東経137度09分33秒 / 北緯35.6606183度 東経137.159213度 / 35.6606183; 137.159213
国公私立の別 公立学校
設置者 金山町
設立年月日 1948年昭和23年)
閉校年月日 1962年(昭和37年)
共学・別学 男女共学
課程 定時制
設置学科 普通科
所在地 509-1622
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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岐阜県立益田高等学校濃斐分校[注釈 2](ぎふけんりつましたこうとうがっこう のうひぶんこう)とは、かつて岐阜県益田郡金山町(現在の下呂市)にあった公立高等学校分校

概要

益田高等学校の定時制の分校であった。県立高等学校の分校であったが、設置者は金山町であった[注釈 3]

校舎は金山町立濃斐中学校の校舎の一部を使用していた。濃斐中学校の跡地は、現在の金山小学校である。

沿革

  • 1948年昭和23年)
    • 10月14日 - 武儀郡金山町に岐阜県立益田高等学校武儀郡金山分校として開校。校舎は金山小学校の校舎の2階を使用。
    • 11月9日 - 認可を受ける。
  • 1951年(昭和26年)4月19日 - 武儀郡学校組合立濃斐中学校の校舎に移転。岐阜県立益田高等学校濃斐分校に改称する。
  • 1959年(昭和34年)3月10日 - 募集を停止。
  • 1962年(昭和37年)3月 - 廃校。廃校時の生徒数は31名。

脚注 

注釈 

  1. ^ 現在の下呂市金山町金山2151。
  2. ^ 岐阜県立益田清風高等学校のHPでは「濃飛分校」と記述。
  3. ^ 岐阜県の高等学校の定時制分校は、通称「岐阜県方式」という制度により、分校のある市町村や学校組合が設置者となり、運営と費用負担を行った。指導と教職員の派遣は岐阜県が行った。

出典

参考文献

  • 金山町誌(金山町誌編纂委員会・1975年)P.931
  • 岐阜県定通教育三十周年記念誌(岐阜県高等学校定時制通信制三十周年記念会・1978年)

関連項目




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