山口直清とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 山口直清の意味・解説 

山口直清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/04 02:31 UTC 版)

 
山口直清
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦9年(1759年
死没 寛政10年2月8日1798年3月24日
改名 伊達徳興→山口直清
別名 内匠、兵庫
墓所 法界寺
官位 従五位下丹波守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家斉
氏族 宇和島伊達氏山口氏
父母 父:伊達村候、母:田中氏
養父:山口直承
兄弟 藤、栄、伊達徳輝、直清、伊達徳元、
於貞、伊達村寿、少次郎、久、新、寛、
九十郎、藤三郎、初、富、錬、桜田壽忠、桜田壽恕
山口直承娘・嘉智子
直勝
テンプレートを表示

山口 直清(やまぐち なおきよ)は、江戸時代中期の旗本。3,000石。官位従五位下丹波守

略歴

伊予国宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男として誕生。

安永7年(1778年)に山口直承の養子となる[1]

寛政元年(1789年)11月19日に家督を継承。寛政2年(1790年)11月7日より火事場見廻役となり、寛政4年(1792年)1月11日に使番に移り、3月6日より火事場見廻役を兼任する。12月16日に布衣の着用を許される。寛政5年(1793年)3月8日に日光奉行となり、11月15日に従五位下丹波守に叙任される。寛政7年(1795年)7月16日より大坂町奉行となり、寛政10年(1798年)2月8日に大坂で死去した[2]。ただし、『伊達系譜』では1月24日死去としているほか、『大阪市史』では口碑(言い伝え)として、幕府から大坂三郷に御用金を課す内命があった際にそれを諫める為に自殺した、とする記載がある[1][3]

直清の子孫から宇和島藩主伊達宗城伊予吉田藩伊達宗孝伊達宗敬信濃国松代藩真田幸民などが出ている。

系譜

  • 父:伊達村候(1725-1794)
  • 母:田中氏
  • 養父:山口直承
  • 妻:嘉智子 - 山口直承の娘

脚注

  1. ^ a b 谷有二「幕臣山口氏と宇和島・吉田藩主」(『伊予史談』第214・215合併号、1974年8月、pp.19-20)
  2. ^ 『寛政重修諸家譜 第2輯』国民図書、1923年、p.279。
  3. ^ 『大阪市史 第2巻』大阪市参事会、1914年、p.195。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山口直清」の関連用語

山口直清のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山口直清のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山口直清 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS