小川寛爾
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小川 寛爾(おがわ かんじ、1902年 - 1944年)は千葉県出身の飛行家。名手として知られたが、第二次大戦中に航空事故で没する。航空有功章受章。

生涯
千葉県山武郡南郷村で1901年(明治34年)3月28日に生まれる[1]。小川政蔵の三男で県立成東中学校[2]に進学。当時開校したばかりの日本飛行学校の記事を見て、飛行家への憧れを持つ。最年少練習生として紹介されていた辻村泰作にファンレターを送る[注釈 1]などしていたが、4学年で中退し東京へ出た[3]。
唯一の教官であり共同経営者だった玉井清太郎の事故死と大水害の影響で蒲田へ移転、自動車学校へと路線変更していた元日本飛行学校。寛爾はここで運転や発動機修理の技術を学び、整備工見習として働いている[4]。その後航空局委託操縦生の選抜試験[注釈 2]に合格し、第一期生10名中の一人として1921年(大正10年)1月6日に所沢陸軍飛行学校へ入校した。8ヶ月の教育を受け9月1日に卒業式[注釈 3]。二等飛行機操縦士の免許を取得する。寛爾は卒業後も同校のフランス人教官について操縦技術を学ぶかたわら、翌年の第二期では助教を務めている[2]。1923年(大正12年)6月、立川陸軍飛行場の西側部分に日本飛行学校が再建されると、校長の相羽有は航空局を通じて小川寛爾に教官就任を打診。これを受けておよそ5年間、同校で操縦士の育成に努めた[1]。1928年(昭和3年)1月、航空局委託操縦生出身者で交星会を結成。寛爾も発起人の一人であり、幹事を務める[注釈 4]。同年12月、国策会社として設立された日本航空輸送[7]に籍を移す。東京飛行場が開設すると初代飛行場長[2]を務め、1933年(昭和8年)には日本航空輸送の東京支所長となる[1]。
1931年(昭和6年)冬、富士山頂観測所で食料欠乏となった際を想定して補給テストが行われた。2月9日、日本航空輸送のフォッカー3M機を操縦し頂上付近に迫ったが、物資投下作業中に気流の乱れを受け機体が急降下。何とか体勢を立て直し帰還している[注釈 5]。1931年(昭和6年)10月には内地から台湾への定期航空路開拓のため、フォッカー3M機による試験飛行の機長を務めた。福岡県の太刀洗を飛び立ち沖縄に寄った後、台北へ到着。所要時間は9時間20分[注釈 6]。翌1932年(昭和7年)4月には東京-福岡間の夜間飛行試験の機長も務めている[11][10]。1933年(昭和8年)5月、寛爾の操縦で中島式P-1型郵便機を使った夜間郵便飛行のテストを行う。この結果、同年11月には東京-大阪間に設置された16ヶ所の航空灯台を辿って毎日一往復の郵便飛行が実施されるようになった[10]。
1933年(昭和8年)6月19日、秘密裏に実行された長岡外史陸軍中将の航空葬[注釈 7]で操縦士を務める。羽田飛行場に用意された日本航空輸送の旅客機を操り、外史の長男・護一らを乗せて離陸。遺骨を入れた壺は相模湾に投下された[12]。1936年(昭和11年)9月2日、逓信大臣室にて委託操縦生同期の河内一彦らと共に航空章を授与される[13]。1938年(昭和13年)11月、国策により日本航空輸送が解散し大日本航空が設立されると、寛爾は東京支所運航部主事兼乗員監督の役職に就いた。1941年(昭和16年)9月には長年の功労に対し逓信省より賞状と航空有功章が贈られている[注釈 8]。
その後、軍に徴用され南方航空輸送部[注釈 9]に所属。第一中隊長を務めていた寛爾はジャワ支部長となり、その後少佐待遇の陸軍司政官に。1944年(昭和19年)2月17日の朝8時頃、バンドンで鹵獲後に修理したオランダ軍のロッキード・ハドソン爆撃機を操縦し、スラバヤの飛行場[2]を出発。離陸後の第一旋回に入ったところ、不意に機首が下がってそのまま飛行場西端に激突炎上[注釈 10]。東京の蒲田区萩中町に妻と三男三女を残し、満42歳でこの世を去った。遺骨は4月15日に立川陸軍飛行場へ帰還。5月13日、青山斎場で航空局陸軍委託操縦生第一期生葬として式が営まれ、多くの航空関係者が参列した[16]。
家族
- イサ(妻)- 1902年12月生まれ。鈴木竹次郎の長女[17]。羽田高等女学校卒業。
- 昭(長男)- 1927年1月生まれ。
- 寛子(長女)- 1928年6月生まれ。
- 次男(二男)- 1930年7月生まれ。
- 夏乃(二女)- 1935年7月生まれ。
- 洋子(三女)- 1937年生まれ。
- 三彦(三男)- 1940年生まれ[18]。
脚注
注釈
- ^ 自分は家が豊かでなく中学へ通うのが精一杯。300円もかかる日本飛行学校へ入ることは望めないが、チャンスがあれば大空に一生を懸けたい。といった内容の手紙を送った。辻村は東京に出てきた寛爾を校長の相羽有に引き合わせるなど世話を焼き、同じ明治34年生まれの2人の交友は以後長く続いた。
- ^ 応募者は160名。体格検査に合格した114名が国語、作文、地理。理科、英語の学科試験を受け、10名が選抜された。
- ^ 第一期の優等生に選ばれた中尾純利が銀時計を贈られ、サルムソン2A2型機で宙返り飛行などを披露した。卒業式には来賓として伊藤音次郎、白戸栄之助、小栗常太郎ら民間航空の先駆者たちも同席。またこの際行われた徴兵検査の結果、寛爾ら3名は乙一種合格。甲種合格した4名は航空隊へ入営が決まった[5]。
- ^ 寛爾の他、河内一彦、羽太文夫、井上喜代司、藤枝祐夫らによって発起された。後援は航空局技術課長・児玉常雄[6]。
- ^ 小川寛爾飛行士が操縦し、同乗者は川井機関士のほか新聞各社の記者4人にカメラマンなど10名。前月に新聞紙上で発表され世間の注目を集めていた。乱気流の際、機外に投げ出されそうになった者もおり、投下した物資は1つも観測員のもとに届かなかった[8]。
- ^ 10月4日、フォッカー3M機(陸上機)で実施。機長・小川寛爾、航空士・大森正男、機関士・鈴木米太郎、通信士・森六平。翌日は水上機のドルニエ・ワールも飛行し、福岡を出て沖縄瀬底に立ち寄ったのち台湾の淡水港に着いた。機長・藤本照男を含め5名が乗って所要時間は8時間39分[9]。これを経て1936年(昭和11年)1月より内地-台湾便は週に3便の定期旅客運航が始まった[10]。
- ^ 法令上様々な問題があり当初は不許可。交渉を重ねた結果、航空に多大な功績がある長岡外史なので例外中の例外ということでやっと許可を得たが、公表を控えるという条件が付いた[12]。
- ^ 小川寛爾のほか、河内一彦、飯沼正明、中尾純俊、篠原春一郎、羽太文夫、塚越賢爾、美濃勇一、田中勘兵衛、山口元松などが授与された[14]。
- ^ 通称・南航。民間航空各社から徴用されていた要員が嘱託として陸軍部隊に編入され、1942年(昭和17年)12月に創設。本部はシンガポールで、マレー、ジャワ、ビルマなどに支部が置かれた。
- ^ 同乗者に土肥保機関士と中内一雄通信士。寛爾は大日本航空本社運航課長への復帰が決まっており、近々内地へ戻る予定であった。名手が墜落した原因について、作家の平木国夫は積載過重説を支持している[15]。
出典
- ^ a b c 『航空年鑑』(昭和12年)帝国飛行協会、1937年12月、657頁。NDLJP:1172620/378。
- ^ a b c d 成東町史編集委員会 編『成東町史』 通史編、成東町、1986年3月、658-659頁。NDLJP:9643797/366。
- ^ 中澤宇三郎『日本更生史:教育勅語煥發四十年記念』日本更生史編纂局、1930年、152頁。NDLJP:1207530/498。
- ^ 平木国夫『羽田空港の歴史 (朝日選書;234)』朝日新聞社、1983年7月、28頁。NDLJP:12061126/19。
- ^ 高橋重治航空協会、1936年、390頁。NDLJP:1222329/494。
- ^ 『航空発達史』新聞聯合通信社、1933年、34頁。NDLJP:1688388/215。
- ^ 平木国夫『さい果ての空に生きる (Sky books)』酣燈社、1933年、98-99頁。NDLJP:12479051/52。
- ^ 淵秀隆『自然とのふれあい半世紀余:自己開発の人生・金婚記念』東海大学出版会、1991年10月、64-65頁。NDLJP:13295206/47。
- ^ 三宅福馬『日本ゆうびん史随想:ゆうびんははぐくむ』圭文館、1955年、270-271頁。NDLJP:2488669/145。
- ^ a b c 野口昂『航空日本と世界』新興亜社、1941年、452-453頁。NDLJP:1682929/237。
- ^ 『毎日年鑑』(1933版)毎日新聞社、1932年、152頁。NDLJP:2994761/79。
- ^ a b 朝吹磯子『八十年を生きる』読売新聞社、1940年9月、181-182頁。NDLJP:12461683/102。
- ^ 『空』3 (10)、工人社、1936年10月、349頁。NDLJP:2375448/42。
- ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第157号、774頁、1941年9月26日。NDLJP:2960915/14。
- ^ 平木国夫『日本飛行機物語』 首都圏篇、冬樹社、1982年6月、169-170頁。NDLJP:12062593/88。
- ^ 『新聞集成昭和史の証言』 第18巻、本邦書籍、1987年6月、186頁。NDLJP:12396691/107。
- ^ 『人事興信録』(第12版上)人事興信所、1940年、オ4頁。NDLJP:3430445/391。
- ^ 『大衆人事録』(第14版 外地・満支・海外篇)帝国秘密探偵社、1943年、海外 5頁。NDLJP:1230025/914。
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